昨日、クラフト展『時の市』を訪れた。9月だというのに気温は29℃で、汗をかきつつもたっぷりと堪能した。
会場となった合浦公園は、夏休み中の子供たちにとって欠かせない海水浴場だ。まだ暑い日が続くが、8月下旬で既に泳ぎ納め。
昔は今とは比べものにならない賑いだった。砂浜はレジャーシートや大きめのバスタオルで埋め尽くされた。無料で一日中遊べる海水浴場は大人気だった。
監視塔が2基か3基立ち、中央にはプレハブが置かれ、二階建ての部分もあったと思う。管理棟や救護棟もそこにある。大型の拡声器が設置され、ラジオが流れ、時折り「たまに海から上がって休みましょう」と呼びかけていた。
その頃は、気温が30℃を超えるなど全国的にも滅多になく、25℃を超えそうとなれば子供たちは海に入る。しかし、限られた夏休み、ちびっ子たちは22℃であろうとも海に向かう。
昭和44年、夏休みも終盤のその日も僕は海にいた。クロンボ大会の最終エントリーが呼びかけられていたが、廻りには深煎りのコーヒー豆みたいなのがゴロゴロいて、僕の出番などあるはずもなかった。
そんな中、甲子園での試合は続く。地元三沢高校vs松山商業の決勝戦である。両校ともエースが好投し、スコアボードに『0』が並ぶ。あらゆる人が海水浴場に流れる実況を聴いていた。18回で引き分け、翌日に再試合。僕はその中継も砂浜で聴いた。
前日の試合が嘘の様に得点が動く。しかし、太田幸司投手一人が投げ続けた三沢高校は敗れる。とても悔しかった。僕は当時子供で高校野球ファンでもなかった。だが、この伝説とも言える試合の中継を手に汗握り聴けたことは人生の宝物だ。
翌年ロッテに入団した太田幸司投手は、親会社のCMで樹の陰からその端正な顔をサッと出して微笑んでいた。