フィズヨビの田原です♪
先日、安冨渉著『生きるための論語』を読みました。
それまでは、儒家に抱いていたイメージって、
親孝行、年長者に忠誠を誓う・・・
みたいな感じだったんですが、安冨さんの語る論語の世界は、全くイメージが異なり、驚きました。
なんでも、後世の人たちが、論語の意味を歪めて伝えたということらしく、原点の意味を復活させていくと、すごい深遠なことを言っているんですよね。
僕がこの数年間で、「これだ!」と思ったことは、論語にすべて書いてある感じ。
まったくすごい本だと思いました。
論語で定義されている「学習」の意味が、とても深かったので、みなさんと共有したいと思います。
安冨さんの解説から、僕が理解したのは、次のことです。
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「学」という段階では、受け取ったものが何なのか、学ぶ者にはまだ意識化されていない。より正確に言えば、細部に意識が集中してしまうことによって、全体が無意識化されてしまっている。ここには余計なものが染みこんでおり、この行為によって魂は多かれ少なかれ、呪縛されている。
それがある時、「習」によって完全に身体化される。
すなわち、細部が身体化され、無意識化されることによって、逆に全体が意識化され、「ああこれか」と分かるのである。
そうなることによって、不必要なもの、余計なものは排除される。
こうして呪縛から抜け出したときに、人は学んだことを自由に駆使できるようになり、喜びを感じる。
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この学習の意味を知ったときに、自分自身が、
「学」にあまりにも偏りすぎている学びの状況に対して、「習」の部分を追求していくことで、呪縛と解除を、交互に繰り返しながら、生き生きと学んでいけるような学習環境を作りたいんだな。
と気づくことができました。
逆に「習」の部分を十分に作動させることができるなら、思い切って「学」の部分をやれるわけです。
物理を教えつつ、
物理の限界について考える場も創っていく。
そういうバランスが、とても大事なだと思いました。
このテーマについて、熱く語っているブログ記事を書きましたので、是非読んでくださいね。
『生きるための論語』からAL型授業の本質を学ぶ
http://flipped-class.net/wp/?p=2528