才能と技術 | のんびり

のんびり

いろいろあるけれど、平穏無事に暮らしたい

雨が上がり雲が流れて徐々に陽射しが刺すようになってきた

微風が吹いておりちょうど良い感じ

 

楽生師匠富士山登頂ならずのようで、山は怖いな

 

マメコガネ

 

葉っぱがめくれて逆さになって1匹落ちて行きました

 

「不適切にもほどがある」の河合優実が出ているということでなんとなく「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を観てみた

ほう?とオリジナル脚本?原作があるの?と確認すると少し前にネット上で話題になっていたらしい

全然知らなかった

 

当著書がキッカケで作家に転身された岸田奈美氏の自伝エッセイ

当初はnoteで散文として書いてたようで

 

今も閲覧できるのか?と確認すると見れる

ボインダブルーiMacの項

https://note.kishidanami.com/n/na8b5c19481d1?magazine_key=mfb9e9f54e433

 

私も同じiMacを保有していたな

以下、転載

”家でしょんぼりしていると、父が言った。

「お前の友だちなんか、パソコンの向こうにいくらでもおる」

そして、私のiMacは、インターネットに繋がった。

 

ワールドは、ワイドで、ウェブだった。”

 

学校という場所になんとなく居場所がない、周囲と合わない

そんな状況を救ったのがiMacでありインターネットであったようだ

学校という場所以外の居場所があるという救い

 

そしてそのインターネット活動の結果作家に転身とネットで人生が良い方向に変わった

 

良い流れは良い人脈を呼び込む

「ボルボV40を障害対応に改造」

https://note.kishidanami.com/n/nc5c2d1607f45

これをキッカケに海外に向けて翻訳デビュー

 

今となってはインターネットは非常に便利ではあるが弊害となる割合の方が大きいように感じる

しかし、それでも良い側面はなくならない

 

なんでもそうであるが、使い方次第で良くも悪くもなる

 

 

そしてタイトルの「才能と技術」は「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」の中表紙写真を担当した幡野広志のnoteに立ち寄ったところで目にしたのである

 

以下、転載

”うまく撮ろうと意識せずに、無意識でいい写真が撮れてしまうのだ。写真の才能が高いのだと思う。とにかく写真が素直なんだよね。褒められようとか、やってやろう感もない。

 

(中略)

 

「うまい写真=いい写真」と誤解して、技術的にうまくなろうと考えていたけど、活躍するフォトグラファーにアシスタントでつけばつくほど、そこまで高い技術が必要というわけでもないことを知り驚いた。

もちろん適切な技術を高めることは間違いではないのだけど、技術の先にある写真の才能の存在を教えてもらえるのだ。

 

(中略)

 

残念ながらぼくは写真の才能が低いタイプだ。謙遜しているわけじゃない。天才を嫉妬するほど見てきたから自分は違うとわかる。ぼくは天才じゃないから勉強と努力で頑張ったタイプだ。それは自負できる。”

 

非常に簡潔で分かりやすい

技術的なうまさを「これでもか!」と披露したがる人も結構いる気がする

 

邱永漢氏の文書を思い出した

”ことに年若いときには、ペダンチック(衒学的)なところがありましたから。

 昔のぼくが書いた『食は広州に在り』を見たらもう、はじめからおしまいまで、漢学の素養がいかにあるかを一生懸命見せびらかしていますもの…

 今だったら、そんなことはしないでやさしい言葉で書きますよね。誰でもわかるように。その頃は、井上靖さんが正宗白鳥に「漢学の素養がない」なんて文壇で怒られていた時代ですから。”

 

若人が背伸びして自分を過剰にアピールする、それは今も昔も変わらないのかもしれないな

そういう面では誰しもがわかる「技術的」な面は披露しやすい

 

しかし「才能」となるとできる人とできない人がいる

より簡単に表現すると『センス』という方がイメージしやすいと思う

 

センスは個々人によって必ず違いがあり、真似しようとしても決して出来ない領域のことも多い

芸術やスポーツなどはその違いが顕著に出る分野でもある

 

技術と違い意識的に上手くやろうとしても決して出来ない

 

現在は「技術」を重視する傾向が強い、それは努力に比例する傾向があり、さらにいうと答えが分かっているという側面もある

ある意味では「マニュアル(手順書)」と似ている気もする

 

それと相対するのが「才能=センス」なのかな

努力ではどうしようもない領域の話だ

 

「センスを磨く」ということは、ある意味無駄なように見えることをするということになるようにも感じる

 

「それってみんなと違うじゃん」というのは皆と同じ答えじゃないよね?という訴えであるが「私は違う、他にも多様な答えがあるんじゃないか?」という思考がある人の方がセンスは伸びると思う

 

決まっている答えしか分からないんじゃセンスも何も無い