晴れ続き
ようやく九州地方が梅雨入りしたようで
そろそろしっかり降ってもらわないとね
ポポーも大きくなってきた
麻生さんが政治にはお金がかかることを強調しているようだ
何か誤魔化そうとしてややこしくなっているよね
なんてことない普通の話なんだ、一般的な既存のルール「収入を申告しましょう」という国民の義務を自民党の偉い人たちはしてこなかった。さらにしないことを伝統にしてしまっていた
それは罰するべき行為である、例え常態化して「それが悪いと認識することができなかった(本来あり得ない釈明であるが)」としても一般国民と同様、あるいは立場を考えたらそれ以上の罰が科されてもおかしくない事案であるがほぼ無罪放免に近い形になってしまった
かわりにルールが悪いという話にすりかわってしまった
ただ単純な話なんだ
お金が掛かろうと、かかるまいと「収入は申告しましょう」というそれだけの話が、自分たちを正当化するために問題をややこしくしているんだから始末に負えない
ただ一般的な既存ルールを普通に守れ、それだけのことなのにね
政治家といえば都知事選が近くなり小池都知事も対処を始めたようだ
今回は身内ですな
”その後、彼女は関西学院大学に入学したけど、『カイロに行きたい。アラビア語をやりたい』と言いだした。よくアラブの話をしていた父の影響です。
妹は日本にいるときから、エジプトからの留学生を個人教師にして、アラビア語を勉強してたんだから。その後、大学中退して、まずカイロ・アメリカン大学に入るわけや。最初は英会話クラスだったけど、現地でアラビア語を勉強して、2年のときにカイロ大に編入した。
学歴詐称なんて言われてるけど、カイロにいた俺は目の前で卒業したのを見てるんだよ。『兄ちゃん、卒業したよ』って挨拶に来てたからね」”
アラビア語の勉強は万全だということを言いたいことはわかる
告白者が2人いる。3通りの経歴を比べてみる
①先ずは現小池都知事
自著で2年次の落第を記している
1971年が忙しいよね、高校卒業して大学入学するが半年で中退してエジプトに渡る
この理由は朝堂院氏が会見で述べていたことに偽りはないように思う
ここに上の記事では”エジプトに渡る前からエジプト人からアラビア語の個人レッスンを受けていた”という一文が加わった訳だ
なにか不思議な感じを受けるが言葉は自由だ、真実かどうかは関係ない
②次に学歴詐称の訴え続けている北原氏
1972年5月に小池氏と同居を開始するまでは接点はゼロ
カイロ・アメリカン大学でアラビア語を学んでいる時からということになる
小池氏と異なる箇所は1976年の5月に実施された試験からである
そもそも卒業試験(あるいは卒論)ではなくて『進級試験』と表現している
7月上旬の結果で『落第が決定』と明言
進級試験と落第決定という表現から思い浮かぶのは、そもそも卒業年度の4年に進級できていのか?とさえ思ってしまう
さらに『小池氏は9月下旬に帰国した』というところも他の記事とは異なる
③最後に朝堂院氏
小池氏の父親繋がり
カイロ・アメリカン大学を「アメリカンスクール」と表現しているが同じだろう
上記二人と異なるのは「カイロ大学2年に編入したがそれ以上には進級はできなかった」という主旨の話をしていたと認識する
北原氏が表明する1976年5月の進級試験時にはすでにカイロ大学に在籍していなかった、というニュアンス
「いつ中退したのか?」は判然としない
また別の記事から北原氏との同居期間は”’73年2月から’75年12月までの中断をはさんで’76年12月まで約2年”ということなので朝堂院氏のいう「中退後の1年間は空手雑誌編集」ということが本当であれば同居人の北原氏が知らないことはあり得ないと思う
従って朝堂院氏の発言には疑念がある
簡単に照合してみたが、どうも③朝堂院氏はエジプト入りまでは良いがカイロ大学入学以降については信憑性に欠けるように感じる
そしてやはり②北原氏の言及は無下にできない
何気に検索すると疑惑に言及する記事が多い
どの記事がどこまで信頼できるのか?を見極めるのは難しい面もあるが、カイロ大学の卒業はそれほど簡単ではないようである
①アラビア語習得の証明証
例えば、カイロ大学編入前にアラビア語を習得のために通ったカイロ・アメリカン大学(CASAアラビア語コース)では証書が発行されるようである
”なおCASAのアラビア語コースには、(筆者が在籍した1984~85年当時)初級、中級、上級コースがあり、コース修了者には成績表と終了証書が与えられる。しかし、小池氏はそのいずれも公開していない(筆者は上級コースを修了し、成績表と終了証書はいつでも公開できる。小池氏の時代にも成績表と終了証書が出ていたことは、小池氏と同じ未修者のクラスにいた日本人ビジネスマンから確認が取れている)。”
②卒論で慌ただしい時期に日本航空カイロ支店スタッフとして就労?
”1976年に同学科を卒業し、教員を務めているエジプト人男性は卒論に関して次のように語った。
「カイロ大学文学部社会学科(1学年約150人)では、全員が卒論を書かなくてはなりません。4年生の1年間は卒論を書くためのプロジェクト立案、資料集め、インタビューなどに追われます。私の卒論のテーマは、『職業集団としての猿の調教師』で、分量はアラビア語で80~90ページでした。他の学生の卒論のテーマは、教育、社会統制、カイロの貧民街、犯罪学というようなものでした。4年次は、卒論以外にもフィールドワークがあり、12科目程度の講義も取らなくてはならず、試験もあります」”
③新聞の適当さ
昭和51年10月27日付の「東京新聞」
”「この9月、日本人女性として初めてエジプトのカイロ大学文学部社会学科を卒業し、10月中旬に帰国したばかり」”
小池氏の卒業証書の文面
”「1976年10月の(筆者注・小池氏が受けた)試験の結果にもとづき、大学の委員会は同年12月29日に小池氏に文学士の学位を与えることを決定した」”
サンケイ新聞(1976年10月22日付)
”「卒業式を終え、10月11日、日本へ帰ってきた」”
”当時、エジプトから日本へのフライトはほぼ丸1日かかり、前後の移動時間や出国手続き、日本との7時間の時差も考慮すれば、10月11日に日本に着くためには、10月9日くらいにカイロを出発していなくてはならない。ならば追試を受けたのはだいたい10月8日以前でなくてはならない。本当に卒業がかかった追試であるなら、死に物狂いで猛勉強をしているはずだが、『虚飾の履歴書」』には、そのような記述は一切なく、小池氏が日本航空カイロ支店でアルバイトをしていたことや、日本に一時帰国するための費用をかき集めるために駆けずり回っていたことだけが書かれている。”