息苦しい | のんびり

のんびり

いろいろあるけれど、平穏無事に暮らしたい

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なんとなく「息苦しい」なんてことは皆が感じていることではないだろうか?

先日読んだ坂本龍一著書でこんな一文があった

 

”高度経済成長期の60年代は、もっとデタラメを歓迎する空気が世の中にあったはずです。70年代になっても、テレビをつけるとメチャクチャな番組を平気でやっていた。クレイジーキャッツがいなくなってから日本に自由がなくなったと、つくづく思います。映画『日本一の裏切り男』のラストで、議員秘書になった植木等は国会議事堂のてっぺんによじ登り、「どうだ、日本列島、居抜きで売った!」と観客に向かって呼びかけ、買い手を募ります。昔はこんなブラックコメディが毎日のようにお茶の間に流れていたのに、今だと「不謹慎だ!」とクレームが殺到して、テレビ局が炎上しかねませんよね。下手をすれば、製作者が屈辱剤で捕まってしまう。実に息苦しい時代になった、と感じます。”

映画『日本一の裏切り男』は観たことがない、しかしクレイジーキャッツの音楽は普通に耳にしたことがある

 

サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ〜♪

 

と実際そんな時代風潮もあったのだろうし、皮肉もあったのだろう

「正社員で首になることは稀」というみんな会社員政策から「非正規雇用で人件費調整」政策への大転換があったのは否定のしようがない

契約内容により労働者内に大きな格差を生じさせることを承知で企業側に都合が良い理屈を法制化させた

 

今では「男はつらいよ」の寅さんも「釣りバカ日誌」の浜ちゃんに類する人もいなくなったのだろう

時代がそれを許さない

 

 

銭のないやつは 俺んとこへこい

俺もないけど 心配すんな

みろよ 青い空 白い雲

そのうちなんとかなるだろう ♬

 

いっそ清々しい歌詞だ。曲名も「だまって俺についてこい」だもんな

 

生活にゆとりがなくなった結果と言えば良いのだろうか

「そのうちなんとかなろうだろう」なんて感覚が一切排除されてしまった

 

いつからそうなってしまったんだか

「便利、効率」を徹底的に追求することで自らのゆとりを奪い取って常に最高のパフォーマンスを追求するように使命づけられる

最上と思い込まされているものは予定調和のように結果が提示されている道順を辿っているだけのようになっている

 

逆説的に提示された「答え(結果)」を達成することが優秀である、という理屈になっているんだな。今は

イノベーションとはまったく逆の視点だ

 

現実はシュルレアリズムであり、喜劇である
品行方正ですべてが丸くおさまるおめでたいことはない
「平等」を推進するだけで決して完璧な平等が達成されることがないように
 
しかし、それでも「平等」を雄弁に説くだけで如何にも「答え」を提示しているかのような錯覚を起こさせる
決して達成されることがないことを雄弁に述べるだけで英雄になれる、それが現実である
それは言葉だけの世界だ
 
 
そんな世知辛い世の中だからこそ、ブラックコメディや少しだけの破茶滅茶さや或いはシュールな喜劇があった方が良いのだろう
坂本龍一がお笑いのダウンタウンと絡んでいたのはそんな気持ちがあったのだろうか?と考えてしまう
彼があの舞台に上がる必然性はどこにもなかったはずだから、あの時の彼の意思であり興味の対象だったのだろう
 
社会全体が品行方正を建て前として、何かが起こると総叩きという風潮が顕著だ
今やお笑いや漫才の世界でも当たり前になっているように感じる
ビートたけしなんかはまだブラックコメディを表現する時がある、爆笑問題の太田光あたりまでは微かに雰囲気があるのかな
それ以降は世間の常識に染まっているような
 
 
だからこそ古典芸能の落語の寄席などに通う人もいるのだろう
正しさ合戦、マウント合戦、自己責任回避合戦、冷静に見ると喜劇なんだろうな
世の中ってそういう側面もあるよね