雨は上がったが風が強い
雲で陽射しも遮られている
なんとなく身体が重たい
明日は気温が急上昇する予報、なんとか体調を保とうと試みる
冴えない状態で適当にラジヲを聴いたり本を読んだりしてやり過ごしている
養老孟司氏著「ものがわかるということ」を読み終えた
つい先日読んだ太田光著「違和感」とつながるようなところがある
不思議なものだ、なんの関係もないのに
先日のブログで触れた「才能×才覚」の差異が『個性』ということだと読み取る
私は簡易に「才能×才覚」それは能力の格差というイメージを持ってしまっていた
P.83
”日本の古典芸能を習ったら、本当の個性がどういうものか、よく分かります。なぜなら、師匠のする通りにしろと言われるからです。茶道も剣道も同じです。謡を習うなら、師匠と同じように、何年も「うなる」。同じようにしろという教育をすると封健的だと言われましたから、こういう教育はずいぶん廃れてしまいました。
でも十年、二十年、師匠と同じようにやって、どうしても同じようにはなれないとわかる。それが師匠の個性であり、本人の個性です。そこに至ったときに、初めて弟子と師匠の個性、違いがわかる。そこまでやらなきゃ、個性なんてわかりません。他人が真似してできるかもしれないことなんて、個性とは言えませんから。”
正にそういうことなんだな、と納得してしまった
太田光氏のその先だった
生まれ持った才能が違うのは仕方がない、その後の才覚を培うとして、全く同じだけ努力・継続しても違ってしまう
それをどうしても能力の差と判断してしまう
あくまでもそれは個性なんだ
皆が違うことは当たり前だから、あえて「個性」を前面に出して主張すること自体ナンセンスということになる
”シミュレーションができない状況になると、都会の人は「どうすればいいんだ」と必ず訊きます。この質問が出ること自体、「ああすれば、こうなる」が前提になっています。そこで「シミュレーションができなんだよ」とまた言うと、「じゃあ、どうすりゃいいんだ」とまた訊いてきます”
P.137
”対人の世界でも対物の世界でも、多様な場所に身を置けば、何事も自分の思い通りにならないことがわかります。世の中には思い通りにならないことがあることを知る。それが寛容の始まりです。”
P.40
”だから、人生の何割かは空白にして、偶然を受け入れられるようにしておかないといけません。”
どうしても資本主義の経済思考に染まってしまい「効率・生産性」が最優先で人生も最高のコストパフォーマンスで生きることを最上とするような人もいる
コストパフォーマンスが良い人生を過ごしている自分は優秀である、というマウントでしかない
経済理論ではそういう面を追求しなくてはならないケースが確かに多い
特に製造業においては可能な限りコストを削減することはそのまま利益に反映する
しかし、それはあくまでも「ああすれば、こうなる」という結果が決まっていて、それが管理されている限りは変化することがないという場合において適用されるものである
結果が分からない、変化することが当たり前という物事に対して最高のコストパフォーマンスなんて求めることはできない
「変化を受け入れて、対応する」ことしかできないことも多いのが現実である