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 私は、これまで肥後の戦国時代の国衆である「山之上三名字」を知る為に、関連する文献などを読み直してきていたのですが、その中で、一つの手紙から、長年の疑問を紐解く、一つの光を見出しました。

 

 今回、この事を書いてみる事にします。

 これまで、「山之上三名字」について書いて来たのですが、(こちらを参照)名称があらわすように、金峰山周辺を「田尻・内田・牛嶋の三家」が中心となり治めた国衆です。

 私は、現在でも山深い地域が、どうやって経済力を生み出していたのか、資料を紐解くことにより、有明海の海運利権が、大きく関わっているのではないかと推察しました。

 

 地理が分かる人には、ご理解いただけると思いますが、三名字が治めていた地域は、有明海に面する、山間地区です。

 米の収穫には、厳しい環境で、当時、どのように国衆として成り立っていたのか、当時の資料が、殆どないために分からないでいましたが、次にあげる一つの手紙から、一つの推察をしてみることにする。



この手紙は、戦国時代の(年代不詳)12月17日
三池親隆から、山之上三名字の内田左近大夫宛のものです。

 

三池親隆は、天文18年(1549)7月23日 築後大牟田の三池城を、大友宗麟より任された武将。

内田左近大夫は、山之上三名字の内田一族で「東門寺」を領していた。「内田相良」の子孫
    内容は、
「近日無音之至、心中外申居候、仍前日者薪被懸御意候、恐入候、其以後御禮遅々候、属御心候、随而近比無心之申事候へ共、燒炭大望候、得御意候者、可給御芳志候、旁々以参可遂御禮候、恐々謹言」

 

現代語訳してみると、

「近頃ご無沙汰しており、誠に恐縮に存じます。

それにもかかわらず、先日、薪(たきぎ)をご配慮いただき、恐縮しております

その後の御礼が遅れてしまい、申し訳ありません。

(その御礼の遅れなどを)どうかお心に留めず(お許しください)

さて、それ以来、近頃はこちらから特に申し入れをしていませんでしたが、

(貴殿の山林からの)木炭の供給を、大変強く頼みに思っており、待ち望んでおります。

(木炭の供給について)内田殿のご意向をいただくことができましたので、(感謝のしるしとして)御芳志(ごほうし:心遣いへの謝礼の品)を差し上げたいと存じます。

つきましては、改めて私が参上して、御礼を果たすべく存じます(直接お礼を申し上げたい)。」

とあります。

 

 この一枚の手紙から、最初、何故わざわざ遠くの金峰山より、薪(焼炭)を求めているのか、近くには小岱山もあるのにと疑問でしたが、ココで推察してみると、

 三池氏には、平安時代から続き「三池典太」で有名な三池派の刀工集団が存在していました。刀工は、言うまでもなく、現在でいえば武器製造・供給元で、豪族の軍事・経済を支えるものでした。

 当時、製鉄は、「野たたら製鉄」で作られていましたが、この手法は、現代の効率的な製鉄法からは想像もつかないほど、大量の砂鉄と木炭を必要としました。

 

 特に戦国時代を経て技術が確立した江戸時代以降の「鉧(けら)押し法」(日本刀の原料となる玉鋼などを得る方法)のデータが詳細に残っており、中世末期からその基礎が形成されていたと考えられます。

 

 一代(ひとよ)あたりの使用量と生産量

1回の操業(これを「一代(ひとよ)」と呼び、約3昼夜=72時間かかる)で投入される原料は、膨大な量になります。

 

原料/生産物

量の目安 (近世の記録より)

備考

砂鉄

約12トン ~ 15トン

鉄の原料。

木炭

約13トン ~ 15トン

鉄の還元剤と燃料。砂鉄とほぼ同量の木炭が必要。

生産される鉄

約3トン ~ 3.5トン

鉧(けら:主に鋼と錬鉄の塊)として得られる。

 

 つまり、投入した砂鉄の約3倍以上の砂鉄と、砂鉄とほぼ同量の木炭を消費して、ようやく3トンほどの鉄塊を得ることができました。

 

 1回の操業(一代)で、およそ1.5ヘクタール分の森林の木材が木炭として使われたという試算もあります。

 

 安定した木炭供給のため、「砂鉄八里に炭三里」という原則があったと言われますが、これは、砂鉄はやや遠方から運んでも良いが、かさばる木炭は近隣(約12km圏内)から供給する必要があり、その地域の木を切り尽くすと、森林が再生するまで別の土地へ製鉄所を移転することが多かったことを示しています。


 今回の手紙の内容は、大牟田と熊本金峰山。この近隣からは、遠く離れていますが、それが何故、可能だったのか、

 

それは、両者を「有明海が直通している」のです。


 筑後の三池氏は、その領地を、肥後の小代氏と隣接していますが、その関係は、一緒に戦う事もありましたが、争う事もあるなど、当時の豪族でよくある状況だったようです。

 小代氏には、小岱山があり、「小岱松」という、たたら製鉄にはふさわしい木があったようですが、当時の状況としては、三池氏には、木炭が必要とされた時期だったのでしょう。また、この時期、三池親隆と、山之上三名字は、同じく大友家と同心していました。

 

 中世から戦国時代にかけて、大量の木炭を安定的に確保することは、製鉄事業の存続に不可欠でした。

「薪」と「燒炭」という二種類の製鉄に必要な燃料が、内田氏から供給されており、三池氏は「燒炭(木炭)」を今後も強く必要としていることが明確になりました。

 

御礼が遅れたことを深く詫び、さらに今後の木炭供給(燒炭大望候)の承諾を得たことに対し、「必ず私が参上して御礼を果たす」(可遂御禮候)という強い表現を用いています。これは、この木炭の供給が、三池氏にとって軍事・経済の存続に関わるほど重要であることを示しています。

 

したがって、肥後の山上三名字(内田氏)が、筑後の三池氏の製鉄(軍需)活動に必要な木炭の供給源であり、両者が有明海を経由した広域的な燃料ネットワークを構築していたという推察をしました。

また、これは戦国時代、隈本城代の出田一要から、山之上三名字の牛嶋三郎左衛門尉へ出した手紙です。

手紙の内容は、

 

「猶こ、刀之儀、たいはいひら、よき様二頼申候
其已後者取込候へ、不通心外候、無何事御手、爱許無吳儀侯、仍木下
鍛治従此鍛、物きれ作侯之由聞及侯、貳尺七寸二、ひろす、くやいはに、
たいはいよく馳走可申候て、可被御聞侯、細〃従家綱所可申候之条、不重筆侯、恐〃謹言

三月十二日 」

現代語に訳すると、

「なお、刀の件については、太刀は平造りにて、良いようにお願いいたします。
 その後において取り込みなどの不都合があってはならず、もし行き違いがあれば心外に存じます。
 何事もなくご処置くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
よって木下鍛冶が、この刀を鍛え、たいへん切れ味の良い物を作ったと聞いております
二尺七寸にて、刃渡りも広く、鍔元・刃先も確かであり、たいへん良く出来上がることと存じます
ので、その旨をお聞き届けくださいますよう。
 細かいことは家綱より申し述べさせますので、重ねては筆をとりません。恐れながら謹んで申し
上げます。
 
  三月十二日 一要(花押)
   牛嶋三郎左衛門尉殿」

と、隈本城主の後見人である出田一要が、刀の注文を、山之上三名字衆の牛嶋三郎左衛門尉に行
っているのです。


これまで誰も指摘していなかった、山之上三名字所領である、河内町で作刀していた「同田貫」の
木下鍛冶と、山之上三名字の牛嶋氏との関係も、ここで確認できました。


 同田貫の刀とは、ご存じの方も多いと思いますが、「加藤清正」の信任を受け、熊本城の備蓄刀
にもなったもので、その切れ味は、現在でも「兜割」で知られています。
 この手紙は、加藤清正入国前のやり取りですから、清正以前には、木下鍛冶が、河内町で作刀し
ていたとの証拠になります。

 三名字が支配していた河内町周辺では、砂鉄が取れ、中世の「野たたら跡」もあることから、
「山之上三名字」所領内で、刀を作刀していたのは間違いありません。


「同田貫」は、玉名同田貫、河内、など有明海沿いで作刀していたと伝わります。

    さて、ここで疑問がわいてきました。

 では、いつから河内で作刀していたのか、三池氏と、木炭等、つながりが有るなら、三池派の
作刀集団と同田貫は、何かの交流が有るのか。

この事については、今後の課題とします。

最後までお読みいただきありがとうございます。
 
これについて、新ためてこちらに書いたものを転写しましたので、ご興味ある方はどうぞご覧ください。