九州の「神宮」— 6社
| 神社 | 所在地 | 主祭神 |
|---|---|---|
| 英彦山神宮 | 福岡県田川郡添田町 | 天忍穂耳命 |
| 宇佐神宮 | 大分県宇佐市 | 八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后 |
| 宮崎神宮 | 宮崎県宮崎市 | 神武天皇 |
| 鵜戸神宮 | 宮崎県日南市 | 鸕鷀草葺不合尊 |
| 霧島神宮 | 鹿児島県霧島市霧島田口 | 瓊瓊杵尊 |
| 鹿児島神宮 | 鹿児島県霧島市隼人町 | 天津日高彦火火出見尊 |
熊本・佐賀・長崎には神宮号を称する神社はありません。藤崎八旛宮・阿蘇神社・祐徳稲荷神社・宗像大社・香椎宮・筥崎宮などは「宮」「大社」「神社」であって「神宮」ではない、という区別になります。
なぜこの6社なのか
「神宮」は社号であり、勅許を要する特別な称号です。 古代において単に「神宮」といえば伊勢神宮を指し、『延喜式神名帳』で神宮号を付されたのは伊勢・石上・鹿島・香取の4社のみでした。明治の社格制度以降、神宮号は原則として
- 皇祖・皇室の祖神を祀る社
- 天皇を祀る社
- それに準じる特別な由緒を持つ社
に限って許されるようになりました。九州の6社はいずれもこの条件に当てはまります。
日向三代・天孫降臨系(4社) — 霧島神宮(瓊瓊杵尊=天孫)、鹿児島神宮(彦火火出見尊=山幸彦)、鵜戸神宮(鸕鷀草葺不合尊=神武の父)、宮崎神宮(神武天皇)。天孫降臨から神武東征に至る記紀神話の系譜が、そのまま南九州に並んでいる形です。これが九州南部に神宮が集中する直接の理由です。
宇佐神宮 — 全国約4万社の八幡宮の総本宮で、祭神の八幡大神は応神天皇と同一視されます。加えて、伊勢神宮に次ぐ「第二の宗廟」として歴代朝廷から扱われ、和気清麻呂の宇佐八幡宮神託事件に象徴される国家的地位を持っていました。天皇祭神かつ勅祭社という二重の資格です。
英彦山神宮 — 例外的な経緯を持ちます。祭神の天忍穂耳命は天照大神の子で瓊瓊杵尊の父にあたり皇祖神に連なりますが、中世以来この山は修験道の霊山「英彦山大権現」でした。明治の神仏分離で「英彦山神社」となり、神宮号の宣下を受けたのは昭和50年(1975年)と新しく、戦後に神宮号を称した3例目にあたります。
一 まず制度の実態から ― 「神宮号」に根拠法令は存在しなかった
深堀りするうえで最初に押さえるべきは、これが明文の法制ではなかったという点です。国家神道の時代を通じて、「どういう神社が神宮を名乗れるか」を定めた法令は、ついに作られませんでした。社格(官幣大社・国幣中社…)は太政官布告で明示されたのに対し、社号は慣行と個別裁可の積み重ねで運用されています。
実際の手続きは、判明している大正・昭和期の例で見るとこうなります(吉野神宮・水無瀬神宮の例)。
神社(または府県)から内務省へ改称請願 → 内務省が内閣へ上申 → 閣議承認 → 天皇へ上奏 → 裁可 → 内務省から指令
つまり一件ごとの天皇の裁可事項であり、だからこそ「宣下」という語が使われます。明治初期についてはこの手続すら不詳で、宇佐神宮・熱田神宮などは「いつ神宮になったか」が特定できません(宇佐神宮は明治4年5月14日の官幣大社列格の時点ですでに「宇佐神宮」表記)。
なお戦後、社格制度そのものは廃止されましたが、神社本庁の包括下では依然として社号変更に承認を要し、伊弉諾神宮(1954)の際には神社本庁統理が宮内庁に赴いて上奏を依頼するという手順が踏まれています。
二 九州六社の改称年譜(公文書ベース)
| 改称年月日 | 社名 | 改称前 | 社格 |
|---|---|---|---|
| 明治4年(1871)5月14日以前 | 宇佐神宮 | (宇佐八幡宮) | 官幣大社・勅祭社 |
| 明治7年(1874)2月15日 | 霧島神宮 | 霧島神社 | 官幣大社 |
| 明治7年(1874)3月25日 | 鹿児島神宮 | 鹿児島神社(国幣中社) | 官幣中社→のち官幣大社 |
| 明治7年(1874)3月25日 | 鵜戸神宮 | 鵜戸神社(国幣小社) | 官幣小社→のち官幣大社 |
| 大正2年(1913)7月4日 | 宮崎神宮 | 宮崎宮(明治11年列格) | 官幣大社 |
| 昭和49年(1974)〜50年(1975) | 英彦山神宮 | 英彦山神社 | 旧官幣中社 |
ここで年次の異同を明示しておきます。英彦山神宮について、福岡県の公的観光資料は「昭和50年(1975年)改称」としますが、安藤希章『神殿大観』は上奏を「昭和49年(1974年)6月24日」と記します。上奏日と指令日・改称実施日のずれか、あるいはいずれかの誤りかは、現時点の手元資料では確定できません。神社側の社史で確認すべき箇所です。
三 明治七年の「南九州三社同時改称」が最大の論点
年譜を見ると、明治7年2月〜3月のわずか40日間に、霧島・鹿児島・鵜戸の三社がまとめて神宮に改称されています。これは偶然ではなく、政策として一体のものです。
三社の祭神を並べると意味が露出します。
- 霧島神宮 ― 瓊瓊杵尊(天孫、降臨の第一代)
- 鹿児島神宮 ― 彦火火出見尊(山幸彦、第二代)
- 鵜戸神宮 ― 鸕鷀草葺不合尊(第三代、神武の父)
すなわち日向三代(神代三代)の完全なセットです。明治政府はこれを「皇室の祖廟」というカテゴリーで括っており、敗戦時に神祇院が伊勢神宮とともに国家との公的関係の存続を模索した神社リストでも、この三社は熱田神宮・橿原神宮・明治神宮などと同じ「祖廟」に分類されています。
つまり南九州の三社は、個々の由緒に応じて昇格したのではなく、記紀神話の系譜を現実の国土に投影し、参拝可能な地点として制度化するという作業の結果です。天孫降臨から神武東征に至る物語を、鹿児島・宮崎に三つの実体として打ち込んだ。九州に神宮が偏在するのは、九州が神話の舞台だったからではなく、明治国家が神話の舞台を九州に確定したから、と言うべきです。
四 宇佐神宮 ― 系統が違う唯一の存在
六社のうち宇佐だけは論理が別です。日向三代系ではなく、応神天皇(誉田別尊)を祀る八幡信仰の総本宮であり、分類上も「祖廟」ではなく「准祖廟」です。かつ勅祭社。
宇佐が神宮であり得た根拠は、記紀神話ではなく歴史的な国家的地位にあります。和気清麻呂の宇佐八幡宮神託事件(769年)に象徴されるように、宇佐は皇位そのものに関与しうる社として扱われ、伊勢に次ぐ「第二の宗廟」と称されました。神宮号が与えられたというより、すでに持っていた地位が明治の制度に翻訳されたというほうが実態に近い。
ここで社号統制の一般則が効いてきます。『神殿大観』の整理では、原則として「八幡宮」は官国幣社が名乗るものであり、県社から昇格した社が八幡社→八幡宮に改称した例がある(柞原八幡宮・千栗八幡宮)。一方で「天満宮」は原則認められず、明治2年の宣命で北野天満宮は「北野神社」と改称させられ、明治9年には宮号復旧の請願が政府に却下されています。太宰府天満宮も「太宰府神社」となりました。現在の「太宰府天満宮」の呼称は戦後の復活です。
この対比は重要です。八幡=応神天皇=皇統に連なるので厚遇、天満宮=菅原道真=臣下なので社号剥奪。社号は祭神の皇統との距離を測る目盛りだったわけです。
五 宮崎神宮はなぜ大正二年まで遅れたのか
神武天皇を祀る宮崎神宮が、日向三代の三社より39年遅れて神宮になった事実は示唆的です。経緯は、明治11年(1878)に「宮崎宮」として列格 → 大正2年(1913)に「宮崎神宮」へ改称、というもの。
背景として、明治22年(1889)に橿原神宮が創立聴許されている点が効いていると考えられます。神武天皇奉斎の中心は即位地である橿原に置かれ、宮崎は「東遷以前の皇居跡」という位置づけに留められた。分類上も宮崎神宮は宇佐と同じ「准祖廟」であり、橿原神宮の「祖廟」より一段下です。同じ神武天皇を祀りながら格差がある。
大正2年の昇格は、この時期の日向=神武聖蹟の顕彰運動、神武天皇即位2600年(昭和15年)へ向かう国家的な機運の高まりの中に置いて読むべきものです。
六 英彦山神宮 ― 例外中の例外
英彦山は制度的にきわめて異例です。
- 唯一の官幣中社出身の神宮。他の神宮はすべて官幣大社です。
- 戦後の改称(伊弉諾神宮・北海道神宮と並ぶ三例)。国家による宣下ではなく、神社本庁体制下での承認である点が本質的に違います。
- 修験道の霊山であったこと。中世以来「英彦山大権現」として栄え、明治の神仏分離で「英彦山神社」に整理された社です。
祭神の天之忍穂耳命(正勝吾勝速日天之忍穂耳命)は天照大神の子で瓊瓊杵尊の父ですから、系譜上は日向三代の直前、まさに皇祖神系です。にもかかわらず明治期に神宮号が与えられなかったのは、修験道の本拠であったという出自が神仏分離政策と相容れなかったためと考えるのが自然でしょう。戦後、国家の教義的統制が外れてはじめて、祭神の系譜だけを根拠に神宮号が認められた。制度の性格が変わったことを示す好例です。
七 では、なぜ肥後に神宮がないのか
ここが最も面白い問題です。肥後は九州でも屈指の古社を持ちながら、神宮号がゼロです。三つの事例で検証します。
阿蘇神社 ― 系譜が「傍系」だった
阿蘇神社の主祭神・健磐龍命は、社伝で神武天皇の孫とされます。系譜の近さだけなら日向三代に匹敵します。延喜式内名神大社、肥後国一之宮、最終的に官幣大社にまで列しており、社格では霧島神宮・宮崎神宮と同格です。
にもかかわらず神宮号に届かなかった。理由は二つ考えられます。
第一に、皇統の傍系であること。神宮号は「天皇」または「皇祖(=皇統の直系祖先)」を祀る社に与えられました。健磐龍命は神武の孫であっても、後の天皇に繋がる系統ではなく、阿蘇氏という一氏族の祖神です。皇別ではあるが皇祖ではない。この一線が決定的です。
第二に、神格の性質。健磐龍命は外輪山を蹴破ってカルデラ湖を干上がらせ農地を拓いたという開拓神であり、阿蘇山火口を神体とする火山信仰と融合しています。これは天孫降臨神話の担い手というより、国津神的・地主神的な性格です。明治の神宮号は皇祖神の系列を可視化する装置でしたから、土着の開拓神・火山神という性格はむしろ阻害要因になった。
裏を返せば、阿蘇神社が神宮にならなかったことは格が低いという意味ではなく、この社が皇室神話に回収されきらない独自の信仰体系を持っていたことの証左です。阿蘇氏が92代にわたり大宮司を世襲し、天皇家・出雲国造家と並ぶ古族として現在まで続いている事実も、同じことを別の角度から語っています。
八代宮 ― 「宮号」で止まった肥後の例
熊本県にも皇族奉斎社はあります。八代宮(八代市、懐良親王)は明治13年(1880)8月3日に列格しており、『神殿大観』の分類では「宮号」の側に置かれ、かつ敗戦時に皇室ゆかりとして公的関係存続が模索された社に入っています。
八代宮が神宮でなく宮で止まったのは明快で、懐良親王は親王であって天皇ではないからです。建武中興十五社の系列(鎌倉宮・井伊谷宮・金崎宮など)はすべて宮号どまりです。一方、天皇を祀る白峰宮・赤間宮・水無瀬宮・吉野宮は、昭和14〜15年に相次いで宮号から神宮号へ昇格しました。天皇か親王か、この一点で天井が決まっている。
肥後は「皇族を祀る社は持ったが、天皇・皇祖を祀る社は持たなかった」わけです。
藤崎八旛宮 ― 別系統
藤崎八旛宮は石清水からの勧請で、肥後一国の宗廟・熊本大鎮守と公称された社ですが、大正4年(1915)11月10日に県社から国幣小社へ昇格。八幡系の社号体系に属し、神宮号の候補圏には最初から入っていません。
結論
肥後に神宮がないのは、神話地理の問題です。記紀の日向三代・天孫降臨の舞台は日向・大隅に設定されており、肥後はその圏外にある。肥後が持っていたのは阿蘇という火山と開拓の独自神話であり、それは皇祖神の系譜図に組み込めなかった。明治国家は神話を地図に落とし込む作業をしましたが、その地図に肥後の座標は存在しなかった、ということです。
*どこでも「神宮」と名乗れるのか?
一 許可制度が消滅した経緯
前回述べたとおり、戦前の神宮号は一件ごとの天皇の裁可事項でした。ところが、
- 昭和20年(1945)12月15日 神道指令 — 神社の国家管理を禁止
- 昭和21年(1946) 社格制度廃止、神社本庁発足
- 昭和21年 日本国憲法20条・89条 — 政教分離
- 昭和26年(1951) 宗教法人法
この過程で、国家が神社の社号を審査・認可する制度は根こそぎ消えました。現在、国や自治体が「この神社は神宮を名乗ってよい」と判断することは、むしろ憲法違反になります。
宗教団体の自己規定に行政が格付けを与える行為そのものが政教分離に抵触するからです。
つまり戦後においては、「誰の許可もなく名乗れる」のが異常事態ではなく正常な状態です。
現在ある「神宮」と誤認されないのであれば、どの神社でも神宮と法的には改称できるようになっていますが、典型的な例を見てみます。
幣立神宮(へいたてじんぐう)― 熊本県上益城郡山都町
これは今回の議論において最も象徴的な事例です。前回検討した日前神宮・國懸神宮(勅許による正統な神宮号)、新日吉神宮(天皇奉斎という実質的条件を満たす)とは、性格がまったく異なります。
一 基礎情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 熊本県上益城郡山都町大野 |
| 通称 | 日の宮(ひのみや) |
| 旧社格 | 郷社 |
| 現行 | 神社本庁非加盟(単立) |
| 主祭神 | 神漏岐命・神漏美命・天御中主大神・高皇産霊大神・神皇産霊大神(+阿蘇十二神を合祀) |
まず社格を見てください。郷社です。戦前の社格制度では、官幣大社・官幣中社・官幣小社・国幣大社…という国家管理の社格の下に、府県社・郷社・村社という地方管理の社格が続きます。郷社は下から二番目、いわば地域の鎮守レベルです。前回見た九州六社(すべて官幣大社)とは、社格上まったく別の階層に属していました。
二 由緒の実態 ― 阿蘇神社の系列社
Wikipediaと角川日本地名大辞典の記述を突き合わせると、由緒はこうなります。
- 社伝では健磐龍命(阿蘇神社の祭神、「神武の孫、開拓の神」)がこの地で休息し、幣帛を立てて天神地祇を祀ったのが起源。
- 延喜年間(901〜923)、阿蘇大宮司友成が社殿を造営し伊勢両宮(内宮・外宮)を勧請して「幣立社」と号した。
- 天養元年(1144)、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し、大野郷の総鎮守とした。
- 明治6年(1873)、郷社に列格。
つまりこの社は、阿蘇神社の大宮司家(阿蘇氏)によって創建・管理されてきた、阿蘇神社の末社・産土神という位置づけです。その阿蘇神社よりさらに一段末端にある郷社が、現在「神宮」を名乗っているわけです。
三 「幣立神宮」への改称はいつ、なぜ起きたか
ここが重要な論点ですが、改称の正式な時期・手続を明記した一次資料は、今回の調査では見つかりませんでした。分かっているのは次の事実だけです。
- 明治6年(1873)の郷社列格時点では「幣立神社」。
- 現在は「幣立神社」「幣立神宮」の両方の呼称がウェブ上で流通しており、Wikipediaの項目名自体が「幣立神社」になっている(神宮は括弧書きの別称扱い)。
- ある考察記事(moritayasuo氏、2018)は、「幣立神社」と「幣立神宮」を別の物語を持つ二つの呼称として意識的に区別し、後者を「五色神祭のパワースポットとしての幣立神宮」と表現しています。これは、地域の氏神としての「神社」の実体と、後年になって付与された宗教的・神話的な「神宮」のイメージが、この社の中で二重化していることを示唆する記述です。
つまり誰による、いつの、どのような手続での改称かは特定できませんでした。少なくとも、前回検討した戦前の勅許(日前神宮)や、神社本庁の公式承認(新日吉神宮)のような確認可能な手続の痕跡が、今回の調査では見当たらないという点は申し上げておきます。これは「なかった」ことの証明ではなく、「見つからなかった」ことの報告です。
四 「五色神祭」という現代的な意味づけ
この社を全国的に有名にしているのは、むしろ神話研究とは別の文脈です。
- 毎年8月23日、「五色神祭」という祭が行われ、本殿には世界の五人種を象ったとされる「五色神面」が祀られています。
- 由来として語られる物語は、「肌の色の異なる五種族がこの地から世界に散らばった」「五色人を代表する神々がここで世界平和を協議していた」というもので、記紀神話とは全く別系統の、近代以降に付加されたと見られる神話です。
- 御神木の巨木(命脈15,000年と称される)、九州のほぼ中央に位置するという地理(「九州のへそ」)、太平洋・有明海を分ける分水嶺であることなどが、スピリチュアル/パワースポットとしての言説を補強しています。
- ある観光サイトは、これを「日本最古の神宮」「15,000年前に遡る」とすら表現しています。
これらは学術的な史料批判に耐える由緒ではなく、20世紀後半以降に形成されたスピリチュアル文化の文脈で流通している言説と見るのが妥当です。「神々が住まう国・高天原であった」という社伝も、記紀に記された高天原伝承とは独立した、この社独自の主張です。
五 これまでの議論への位置づけ
この事例を、これまで検討してきた枠組みに置くと、次のように整理できます。
| 皇室との系譜 | 戦前の社格 | 改称の手続的根拠 | ||
|---|---|---|---|---|
| 幣立神宮 | なし(阿蘇氏系の産土神) | 郷社 | 不明 | 五色人神話という独自の宇宙論 |
これまでの事例はすべて、たとえ単立であっても「皇統との系譜」という、神宮号の本来の正当化ロジックを何らかの形で保持していました。
幣立神宮はこの系譜から完全に外れています。祭神は皇祖神ではなく天地開闢神・阿蘇十二神であり、社格は郷社という最末端でした。にもかかわらず「神宮」を称し、かつ「日本最古」とまで喧伝されている。
これは、明治以来の神宮号の秩序(皇統との近さで格付けする論理)とはまったく別の正当化原理 ― 神話的・宇宙論的な独自性 ― によって「神宮」を名乗っている事例だと考えられます。
前々回申し上げた「神社本庁の統制は被包括神社にしか及ばない」という原則がここで実際にどう機能するかというと、まさにこのケースです。郷社という最末端の社格から、系譜的根拠なしに「神宮」を自称することも、現行制度上は誰にも止められません。
今回、「神宮」の由来を調べてみましたが、現在は法的にも資格の根拠自体が無いという事が分かりました。
八百万の神国日本。
皆様へ安寧の日々が訪れますように。