近々、国衆「山之上三名字」または「山上衆」について話をするという事もあり、
資料作りで改めて色々目を通しているのですが、その中で刮目した箇所が有りました。
「山之上三名字」については、森山恒雄先生による論文等が詳しいのですが、森山先生が、大友宗麟から三名字田尻家への知行目録に、「嶽」「小天」「松尾」が入っていないとの指摘があっていた「小天」の田尻家の所領に関する資料が見つかりました。
戦国当時、大友宗麟が菊池家を滅ぼし、肥後を約30年支配していた時代、三名字衆の構造はこの様になっていました。
田尻氏の中で、駿河守(嶽村)、左衛門尉(小天)と有力者が2系統あり、今回小天田尻氏の子孫のお宅にある古文書を見せていただき、その中に田尻左衛門尉の子、田尻宗右衛門の代に隈本城主・城越前守親賢(ちかまさ)の「与力」となり「61町」を拝領と見ることが出来ました。
この時代、大友宗麟より城親賢は、隈本城へ配置転換され宗麟の名代の役目を担っていました。
三名字衆の各嫡家には「城姓」を許され特別な立場となっています。
駿河守の子、田尻伊豆守は「城伊豆守」と呼ばれ、また、牛嶋氏は「城能登守」、内田氏は「城刑部少輔」というふうにです。

またこの古文書に出ている、佐々成政公より三名字衆へ「369町8反9畝」の知行地は、同時代の他の国衆と比べてどれくらいか調べてみました。
| 国衆名 | 天正5年知行地 (龍造寺時代) |
| 天正15年知行地 (佐々成政時代) |
| 城 氏 | 3000町 | → | 800町 |
| 隈部氏 | 1900町 | → | 800町 |
| 阿蘇氏 | 4300町 | → | 300町 |
| 小代氏 | 1300町 | → | 200町 |
| 大津山氏 | 320町 | → | 50町
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| 辺春氏 | 7ヵ村 | → | 120町 |
| 何と、阿蘇氏・小代氏より 知行地が多い
この後、佐々成政は、皆様ご存じの通り国衆一揆の責任を取らされ切腹。
加藤清正が肥後一国を担い、国衆廃絶政策により、一揆を生き残った国衆も、所替え、あるいは浪人となるのでした。 |
