tagigliのブログ

tagigliのブログ

ブログの説明を入力します。

戦国期国衆同士の経済活動

――肥後「山之上三名字衆」と筑後「三池氏」の木炭供給、

             ならびに出田一要書状にみる同田貫鍛冶の前史――

 

 

田尻 善裕

                                                                                                                                                                       

はじめに

 戦国期の九州において、地域社会を支えた経済活動は、戦国大名のみならず、在地の国衆層によっても担われていた。しかし従来の研究では、大名権力の軍事行動や政治構造に比して、国衆同士が主体的に構築した経済的連関、とりわけ領国境を越えた物資供給の実態については十分に検討されてきたとは言い難い。

 本稿は、肥後国北部から有明海沿岸にかけて勢力を有した国衆、いわゆる「山之上三名字衆」(田尻・内田・牛嶋の三氏)に焦点を当て、彼らが関与した経済活動の一端を、二通の一次史料の分析を通じて明らかにすることを目的とする。⑴

 取り上げる史料は、第一に、筑後国三池氏の当主三池親隆が、山之上三名字衆の一角をなす内田左近大夫に宛てた書状であり、そこに記された木炭供給要請を通じて、有明海を介した国衆間交易の実態を検討する。(2) 第二に、隈本城城代であった出田一要(城親基)が、山之上三名字衆の一角をなす牛嶋氏に宛てた書状を分析し、河内在の木下鍛冶への作刀依頼から、加藤清正入国以前における同田貫鍛冶の活動環境を考察する。(3)

 この二通の書状は、それぞれ異なる性格を持ちながらも、戦国期国衆社会における経済・軍需・技術の結節点を具体的に示すものであり、本稿ではこれらを相互に関連づけつつ論を進める。

                                                                                                                                                                   

第一章 山之上三名字衆の領域構造と地理的基盤

 山之上三名字衆とは、肥後国飽田郡から玉名郡南部にかけての金峰山周辺に勢力を有した田尻氏・内田氏・牛嶋氏の三家を指し、一次史料上では「山上衆」あるいは「山之上三名字衆」と称されている。これらの呼称は、大友宗麟や佐々成政といった当時の権力者の文書中にも確認でき、後世の創作的概念ではなく、同時代的認識に基づく国衆であったことがわかる。

 三家の所領構造は一様ではない。田尻氏は嶽(岳)村を本拠とし、嶽から松尾を経て有明海沿岸の小天(おあま)村に至る一帯を掌握していた。領域には、磨砂の産出や(4)、たたら製鉄遺構も見受けられる(5)。 とりわけ小天周辺では、「花畑」を経営していたとされ(6)、その存在は、当時日本における綿花栽培初期の動向を考える上で注目される事例であり、内陸の丘陵帯と海岸部を結びつける経済基盤を有していた。(7)

 内田氏は、東門寺村周辺の山岳・丘陵地帯を中心に所領を構えていた。この地域は急峻な地形と豊かな森林資源を背景とし、木材・木炭の供給源として重要な位置を占めていた。 また、内田氏の領域は、南蛮貿易の拠点であったとされる伊倉南湊(丹倍津)へと至る交通路と接続しており(8)、伊倉南湊そのものは内田氏を中心に三名字衆三家が連携して利用した港湾とみられる。(9)

 牛嶋氏は河内村を中心に勢力を有し、河内湊(船津湊)という有明海に面した貿易港を掌握していた。 河内地域には砂鉄の産出、さらにたたら関連遺構の存在も指摘されており、鍛冶・製鉄に関わる基盤を備えた地域であった。(10)

 このように、山之上三名字衆は、山林資源、農業生産、港湾機能を三家で分有しながら、有機的に結びついた国衆連合体であったと理解できる。

                                                                                                                                                                   

第二章 三池親隆書状にみる木炭供給と有明海交易

【三池親隆書状:佐田家所蔵牛嶋文書(熊本市史中世文書)】

        「近日無音之至、心中外申居

         候、仍前日者薪被懸御意

         候、恐入候、其以後御禮遅

         々候、属御心候、随而近比

         無心之申事候へ共、燒炭大

         望候、得御意候者、可給御

         芳志候、旁々以参可遂御禮

         候、恐々謹言」

          十二月十七日 三池

                 親隆(花押)

           内田左近丈夫殿

 現代語訳

 「近頃ご無沙汰しており、誠に恐縮に存じます。

それにもかかわらず、先日、薪(たきぎ)をご配慮いただき、恐縮しております

その後の御礼が遅れてしまい、申し訳ありません。

(その御礼の遅れなどを)どうかお心に留めず(お許しください)

さて、それ以来、近頃はこちらから特に申し入れをしていませんでしたが、

(貴殿の山林からの)木炭の供給を、大変強く頼みに思っており、待ち望んでおります。

(木炭の供給について)内田殿のご意向をいただくことができましたので、(感謝のしるしとして)御芳志(ごほうし:心遣いへの謝礼の品)を差し上げたいと存じます。

つきましては、改めて私が参上して、御礼を果たすべく存じます(直接お礼を申し上げたい)。」

 

 本章では、筑後国の国衆である三池親隆が、山之上三名字衆の一角である内田左近大夫に宛てた書状を取り上げ、そこに記された木炭供給要請を手がかりとして、有明海を介した国衆間交易の実態を検討する。

 本史料は、年未詳十二月十七日付であり、差出人名は「三池親隆」と記されている。三池親隆は、天文十九年(1550)の乱で、三池城を大友宗麟より任された三池親高とされ(11)、永禄十年(1567)筑前休松の戦で戦死と柳河戦死者名誉録(12)にあるので、本書状は、戦国期中葉における筑後・肥後国衆間の関係を示す一次史料として位置づけることができる。

 三池氏は、大友氏の勢力下において筑後南部を支配し、三池城を拠点として在地支配を担った有力国衆であった。また、名工「三池典太光世」を初代とする三池派刀工を抱え、鍛冶・製鉄に関わる技術的伝統を有していた(13)。そのため、製鉄や鍛冶工程に不可欠な木炭の安定確保は、三池氏にとって恒常的かつ切実な課題であったと考えられる。

 三池親隆書状の中で特に注目されるのが、「焼炭大望候」という表現である。これは、「木炭を是非とも入手したい」との強い要望を示す語であり、当該書状では三池氏が山之上三名字衆に対し木炭供給を懇請していることが読み取れる。

 では、なぜ三池氏は筑後国内ではなく、国を越えた肥後国金峰山方面(山之上三名字衆の領域)から木炭を求めたのだろうか。本来、筑後南部にも小岱山(現在の熊本県荒尾市・長洲町境)の山林があり、松林(「小岱松」)も広がっていたという。小岱山産の松炭という選択肢もあり得たはずだが、それでもなお金峰山方面の木炭を「大望」した背景には、以下のような合理性が考えられる。

 

 第一に、鉄や火薬製造には、高温かつ持続的な火力を安定して供給する良質な木炭が必要とされ、一般に針葉樹から焼かれた木炭、特に松炭(常に高い熱入力を維持できる松炭のエネルギー密度(単位時間あたりの発熱量))が適しているとされてきた。(14) しかし、松炭は燃焼速度が極めて早く、膨大な量を消費するため、野外での連続操業(野たたら)を維持する、には、森林資源(松林)の再生速度を上回る過剰な伐採が必要となる。小岱山が松林主体であったとすれば、そのエネルギー密度の低さ(体積あたりの消費の早さ)』ゆえに、操業を維持するための物流や炭焼きの供給体制が追いつかず、連続稼働が難しくなった可能性が有る。 金峰山麓の山之上三名字衆領域にも森林が広がっており、鍛冶・製鉄に適した木炭の供給地として三池氏に重宝されたのではないか。

 第二に、勢力圏と紛争の状況が影響した可能性がある。戦国期、小岱山一帯は肥後・筑後の境界に位置し、大友氏・龍造寺氏ら外部勢力の争奪の舞台ともなった。仮に小岱山周辺の炭材資源が他勢力の支配下にあったり、戦乱で調達困難であった場合、三池氏は中立的または協調関係にある肥後国衆に調達を依頼する方が得策だったと考えられる。

 山之上三名字衆は肥後北部の国衆であり、当時、三名字衆も三池氏も、柔軟に交易関係を築いていたとみられる。したがって、有明海を介した国を跨ぐ交易ルートが、最も安定的に木炭を入手できる経路であった可能性が高い。(地理的に両国衆の間には、国衆小代氏がいるが当時の関係にも注意を払いたい。)

 第三に、当時の製鉄の一般原則として知られる「砂鉄八里に炭三里」の原則も参考になる。「砂鉄八里に炭三里」とは、製鉄炉を立地させる際、鉄の原料である砂鉄は遠方から運んでも良いが、燃料の木炭はおよそ三里(約十二キロ)以内の近場から供給できる場所を本とせよ、という陸上輸送を前提とした立地論であるが、舟運が利用可能な地域においてはその供給圏は大幅に拡張される。 木炭は体積あたりの重量が軽く、かつ衝撃に弱く砕けやすいため、陸上輸送では運搬コストが極めて高い。これに対し、舟運は大量かつ静的な輸送が可能であり、近世の製鉄業や大規模な都市需要を支える木炭流通の根拠となった。 小岱山周辺が有明海に面しているという地理的優位性を考慮すれば、燃料供給能力は単なる山林の植生面積以上に、舟運による外部調達能力に左右された可能性を検討すべきである。 三池氏が領内で木炭資源を使い果たし、次なる供給源を周辺に求めざるを得なかった状況があったなら、距離的・輸送効率的に有明海越しでも供給可能な肥後金峰山地域に白羽の矢を立てたのは合理的と言える。

 実際、河内浦・伊倉南湊(山之上三名字衆の拠点港)から有明海を渡れば、三池氏の本拠地(現在の福岡県大牟田市)付近の海岸へ直接舟運で木炭を輸送できる地の利があった。海上輸送は陸送に比べ大量の物資を一度に運べるため、木炭のように嵩高い資源の長距離輸送には適している。三池親隆書状で「焼炭」を強く要望した裏には、このような海運ルートの存在と、肥後国衆との協調関係への信頼があったと考えられる。

 以上のように、三池親隆書状に表れた木炭供給要請は、単なる一国衆間の物資融通に留まらず、戦国期の広域経済圏における資源配分の実態を示すものと位置づけられる。

 山之上三名字衆は、自領の森林資源から生産する木炭を交易品として他国へ供給し、その見返りに何らかの謝礼や利益を得ていた可能性が高い。実際、書状には木炭供給への謝礼表現も含まれており、例えば供給が叶った際の厚意に対する深甚な感謝や、今後の友好継続を願う文言が記されていると考えられる(原文中の敬語表現などから推測される)。

 このような取引関係は、戦国大名同士の主従的な経済関係とは異なり、国衆レベルの対等な交易ネットワークであった点に特徴がある。山之上三名字衆と三池氏の木炭取引は、有明海を媒介とした独自の経済圏が中世末期の九州北部に存在したことを物語るものと言えよう。

 

                                                                                                                                                                     

 

 

第三章 出田一要書状にみる同田貫鍛冶の前史

【出田一要書状:佐田家所蔵牛嶋文書(熊本市史中世文書)】

   

     「猶こ、刀之儀、たいはいひら、よき様二頼申候

      其已後者取込候へ、不通心外候、無何事御手、爱許無吳儀侯、仍木下

      鍛治従此鍛、物きれ作侯之由聞及侯、貳尺七寸二、ひろす、くやいはに、

      たいはいよく馳走可申候て、可被御聞侯、細〃従家綱所可申候之条、不重筆侯、恐〃謹言

       三月十二日 」 城賛入 一要(花押)

     牛嶋三郎左衛門尉殿

          進之候

現代語訳

「なお、刀の件については、太刀は平造りにて、良いようにお願いいたします。

 その後において取り込みなどの不都合があってはならず、もし行き違いがあれば心外に存じます。

 何事もなくご処置くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

よって木下鍛冶が、この刀を鍛え、たいへん切れ味の良い物を作ったと聞いております

二尺七寸にて、刃渡りも広く、鍔元・刃先も確かであり、たいへん良く出来上がることと存じます

ので、その旨をお聞き届けくださいますよう。

 細かいことは家綱より申し述べさせますので、重ねては筆をとりません。恐れながら謹んで申し

上げます。

      三月十二日 一要(花押)

   牛嶋三郎左衛門尉殿」

 

 続いて、本章では出田一要(城親基)が牛嶋三郎左衛門尉に宛てた書状(年不詳3月12日)を分析する。 

 差出人である出田(城)一要は、隈本城主城親賢の一族。一要は、城親賢の息子である幼少の城久基の後見人として隈本城城代という立場にあった有力国人である。城氏は大友支配下の肥後において、軍事・政治の要衝である隈本城に入り、肥後中部支配の実務を担っていた。一要もまた、その一翼を担った人物と位置づけられる。城氏は、秀吉の島津攻めの時に降伏し、隈本城を開城(天正十五年四月)、大阪へ召喚されていた時期に国衆一揆が起こった為、一揆に関与していないという事で安堵され、筑後石垣山へ所領替えとなっている。(15)

 書状の宛先である牛嶋三郎左衛門尉は、山之上三名字の牛嶋氏当主(牛嶋公俊か)であり、ゆえに本書状は肥後国衆同士が交わした、加藤清正入国前の書簡という位置づけになる。

 書状には、一要が牛嶋氏に対し「河内在の木下鍛冶」に太刀の鍛造を依頼する旨が記されている。つまり、河内(熊本市河内町)に住む「木下」姓の刀鍛冶の刀が非常によく斬れると風評を聞いた一要が、その刀匠に長さ二尺七寸(約81.8cm)の太刀を一本作らせたいので取り次いでほしい、と依頼しているのである。

 二尺七寸という寸法は、当時の標準的な太刀(約二尺五寸前後)よりやや長めで、太刀としても実戦用の長さに属する。さらに形状について「平造り」という指定が見られ、平造(鎬筋を立てず平刃とする刀身様式)での誂えを求めていたことが読み取れる。これは刺突よりも斬撃に重きを置いた頑丈な刀身を意図したものとも考えられる。出田一要はこの書状の中で、「木下鍛冶」が鍛えた刀が評判通り良く斬れるかどうか、自身で確かめたいとの趣旨を述べ、ぜひとも一本作らせてほしいと熱望している。この背景には、戦乱が激化する中で実戦的な名刀への需要が高まっていた事情がうかがえる。

 ここで言及される「木下鍛冶」が、玉名市伊倉(山之上三名字衆の勢力圏)に移住した木下鍛冶であり、後に河内町塩屋に拠点を移したとする伝承は、菊池氏没落後の刀工移動の一端を物語るものである。 すなわち、延寿派刀工たちは玉名市・阿蘇郡・河内地域など肥後各地の国衆のもとで庇護を受けつつ刀剣生産を継続していたとみるのが妥当であり、その中の「木下鍛冶」が、菊池家最後の当主菊池義武を金峰山に匿い、大友宗麟と戦った山之上三名字衆の庇護する河内地域においても、砂鉄やたたら跡の存在を背景に、鍛冶活動が継続されていた可能性が高い。(16)

 菊池氏滅亡(16世紀中葉)以降、延寿系刀工集団は一時衰退したものの、肥後各地に散在してそれぞれ鍛刀を続け、やがて豊臣政権下で加藤清正が肥後国主となると再び日の目を見ることになる。加藤清正は肥後入国後に在地の同田貫派の刀剣を高く評価し、延寿系刀工の兄弟であった清国・正国兄弟を召し抱えて加藤家お抱えの御用鍛冶とした。

 以後、同田貫の刀は熊本城下に大量備蓄され、清正配下の武将から足軽に至るまで愛用される常備刀となった。しかし本書状が書かれた時期には、まだ清正入国前であり、同田貫派は特定の大名の支配下には入っていなかった。 そのため在地国衆の求めに応じて比較的自由に刀剣を製作・供給していたと考えられる。出田一要がわざわざ牛嶋氏を通じて刀鍛冶に太刀製作を依頼した事実は、地域国衆が自前の軍備増強のため優秀な刀工を確保・保護していた状況を物語る。

 本書状は、加藤清正が肥後に入国する以前に、同田貫系鍛冶が特定大名の専属ではなく、在地国衆の庇護のもとで活動していた状況を具体的に示す一次史料である。

 なお、牛嶋家に伝わる伝承(『肥後国地誌集』所収)として、頼朝より拝受したとされる名刀「木(コ)ノ下影」の話があるが、この名称は刀剣名であり、本書状本文に直接登場するものではないが、本稿では、史料に基づく事実とは切り離しつつ、河内在住の木下鍛冶を想起させる後世伝承として位置づけるに留める。(17)

 

総合考察

 以上の分析から浮かび上がるのは、戦国期肥後・筑後地域において国衆レベルで成立した資源管理と軍需生産のネットワークである。山之上三名字衆と三池氏との間には、有明海という地理的ハンディを乗り越えた実利的な交易関係が存在し、肥後側が木炭という燃料資源を供給し、筑後側が何らかの見返り(例えば鉄製品、兵糧、金銭など)をもって応じていた可能性が高い。この関係性は、従来注目されがちな戦国大名間の経済関係(貢納や分国経済)とは異質で、互いに自立した国衆同士が必要資源を融通し合う水平的ネットワークと位置付けられる。

 また、山之上三名字衆の内部では、自領内に刀工集団(同田貫派)を庇護し、その製作する武器を域内外に供給する体制が整っていたことが示唆される。これは、国衆自身が軍需物資の生産基盤を部分的にでも掌握・管理していたことを意味し、戦国乱世を生き抜く上での戦略的行動と評価できる。実際、同田貫派の由来を見ても、菊池氏という大名の没落後、彼ら刀工は新たなパトロンを求めて各地を転々とし、最終的に加藤清正のような新興大名に召し抱えられるまでの間、在地領主層の庇護を受けて存続していた。山之上三名字衆は、そうした刀工に活動の場を提供した領主層の一例であり、地域産業支援の側面も有していたと言える。

 史料的に見ても、今回分析した二通の書状は極めて興味深い特徴を持つ。三池親隆書状と出田一要書状はいずれも一次史料であり、差出人・宛所が明確な実用文書である。前者は熊本市史料編等に翻刻が収録され、後者は熊本県史料(田尻文書写)や牛嶋・内田家伝来文書として伝わっている。内容面でも、それぞれ当時の具体的な物資・武具流通の事実を裏付けており、信頼性は高いと判断される。もちろん、史料の成立年代が明記されていない点(「年欠」)や、写しを通じて伝わっている点には留意が必要である。しかし、文面の様式・用字用語からおおよその時期は推定でき、他の同時代史料との比較検討によって内容の裏付けが可能である。。例えば、「焼炭大望候」の表現は他の戦国期書状にも類例が見られ、緊急の物資請求時に用いられる定型的敬語表現と合致する。また、出田一要書状に記された刀身寸法(二尺七寸)や刀工評は、同時期の刀剣注文書に散見する具体性と一致しており、架空の話ではなく実際の発注記録と考えるのが自然である。

 既存研究においては、肥後国人衆に関する経済連携や兵站面の検討は必ずしも十分とは言えなかった。菊池氏や大友氏・島津氏といった大名の動向に焦点が当てられる一方で、国衆同士の協力関係は周縁的扱いであった。しかし本稿で示したように、国衆レベルでも領域を超えた資源融通網が張り巡らされ、互恵的な関係が構築されていた可能性が高い。特に有明海という地理的コネクターを介した肥後・筑後間のネットワークは、九州戦国史を理解する上で見落としてはならない視点を提供する。

 さらに、同田貫鍛冶の動向についても、従来は加藤清正の抱え工としての活躍(熊本城下での作刀、朝鮮出兵への随行など)ばかりが強調されてきた。それ以前の空白期については断片的な伝承に頼るしかなかったが、今回の分析によって山之上三名字衆という在地領主層との関わりが具体的に浮かび上がった点は大きな成果である。これは、延寿派から同田貫派への継承と発展過程を地域史の中で捉え直す手がかりともなるだろう。

 

最後に

 本研究は、中世戦国期の肥後・筑後における国衆同士の資源供給ネットワークと軍需生産体制について、一次史料を用いて実証的に検討した。分析の結果、肥後国山之上三名字衆と筑後三池氏の間には、有明海を媒介とする木炭供給ルートが存在し、肥後側が針葉樹資源にもとづく良質な木炭を筑後側に提供していた可能性が高いことが分かった。

 三池親隆の書状に見られる「焼炭大望候」という表現は、当時の三池氏が鉄砲・製鉄・鍛冶などの軍需のために木炭を渇望していた状況を示唆している。また、小岱山産の松炭ではなく金峰山系の炭に頼った背景には、木炭の品質面・供給安定性・勢力関係といった複合的要因があったと推察された。

 さらに、出田一要書状の分析から、菊池氏没落後も延寿系刀工(同田貫鍛冶)が山之上三名字衆の庇護下で刀剣製作を続け、周辺勢力からの注文にも応じていた事実が明らかとなった。それら刀工は後に加藤清正に取り立てられて肥後藩の御用鍛冶となり、熊本城の常備刀数百振を製作するに至るが、その前段階において在地国衆が彼らを保護・活用していた点は、新たな発見と言える。

 これらの知見は、戦国期の地方社会における自主的・連帯的な経済活動の一端を示すものであり、中央集権的な大名権力の影に隠れがちな国衆の実像に光を当てるものである。国衆たちは単なる大名の傘下勢力ではなく、自給自足のみならず相互交易によって不足資源を補い、軍事力維持の基盤を築いていた。

 本研究で用いた一次史料群の示す事実は、地域間連携のダイナミズムが中世末期の九州に存在したことを具体的に裏付けている。

 最後に、史料の信頼性と課題について触れておきたい。今回分析した書状類は内容的整合性も高く、当該時期の状況を反映するものとして史料価値は大きい。しかし、依然としてその成立年代の特定や周辺の状況証拠の集積など課題も残る。今後は、他地域の類似史料(たとえば有明海対岸の肥前・佐賀方面の古文書)や、考古学的資料(河内町や三池地域の製鉄遺跡調査など)とも照合し、国衆間ネットワークの全体像をより立体的に復元する必要がある。

 また、同田貫鍛冶についても、系譜や作品調査を通じてその活動範囲と技術的特質を解明し、地域社会との関係性を深く考察すべきであろう。本稿の検討はその一端を示したに過ぎないが、中世肥後・筑後の経済的・軍事的連携という新視角を提示することで、今後の戦国期地域史研究の発展に資することを期待したい。 

 

令和七年十二月二十三日

田尻 善裕

 

                                        

*山之上三名字衆は、田尻・内田・牛嶋の三氏を中心とし、一門には、加来・上妻・緒方・佐藤の諸氏がいたとされる。(18)

注釈:

1 山之上三名字衆(山上衆/山ノ上衆)河内町史(通史編)「山之上三名字」P480。

2 三池親隆書状(年未詳十二月十七日)「内田文書(熊本県史料中世篇二)」河内町史資料編第一P36

3 出田一要書状(年不詳三月十二日)「佐田家所蔵牛嶋文書(熊本市史中世文書)」河内町史資料編第一P8

4 磨砂の産出:河内町史(嶽村地誌)pp.54–55

5 のたたら 熊本市西山地区文化財調査報告書S42 熊本市教育委員会 P8

6 『霊巌洞物語』p.256。

7 永原慶二「新・木綿以前のこと――苧麻から木綿へ」(中公新書963)p.104。

8 『文化の港伊倉』。 「高瀬湊関係歴史資料調査報告書(二)」pp.4–5

9 「九州史学」中近世以降期の国衆一揆と領主検地P40

10 河内村地誌 P648

11 わたしたちのまち三池・大牟田の歴史P84

12 柳河戦死者名誉録P5 

13  日本刀 本阿弥光遜P462

14 鉄の歴史』日本鉄鋼協会編、佐々木稔編『鉄の考古学』、島根県教育委員会『中国地域たたら製鉄遺産群調査報告書』

15 新熊本市史通史編第二巻(中世)P489

16 河内町史地誌編P643

17 古今肥後見聞雑記』肥後国地誌集 青潮社P234

18 河内町史(通史編)P535