江戸末期の天皇として有名な孝明天皇の祖父に当たる光格天皇が亡くなられたときに、こんな落首の連歌が詠まれた。
天皇の号が今度世に出て
はっと驚く江戸も京都も
陵はいかがいかがと有識者
泉はちいと不気受なるもの
これだけでは、なんだかさっぱり分からないが、号とは死後に贈られる追号、陵とは天皇陵、泉とは代々天皇家が葬られた泉湧寺(せんにゅうじ)のこと。
語句は分かっても意味はまだ分からないであろう。
実は江戸時代に天皇というのは馴染みのない呼称だった。
公家名簿ともいえる「雲上明覧」の安政四年(1857年)版を見ると、初代神武天皇から第六十二代の村上天皇までは天皇と記されているが、第六十三代の冷泉院から第百十九代の後桃園院までは「~天皇」ではなく「~院」が使用され、第百二十代の光格天皇から、また「~天皇」が復活しているのである。つまり九百年もの長きに亘り、「天皇」号はなかった。
であるから、落首は「天皇」号の復活に人々は驚き、これを機会に天皇陵も復活してはと有識者が言うので、泉湧寺は面白くない、という意味になる。
では人々は天皇を何と呼んでいたのかと言うと「主上」(しゅじょう)「禁裏(裡)」(きんり)などと呼んでいた。
時代小説でおなじみの「帝」(みかど)、「天子」(てんし)なども使われている。
公式には、村上天皇以後の天皇は「~院」と呼称されていた。
たとえば後醍醐天皇は「後醍醐院」と呼ばれていたのである。
明治になると政府は気になったのか「後醍醐院天皇」などと呼んでいた。
院を省いてすべての天皇を単に「~天皇」と呼ぶようになったのは大正十四年(1925年)からに過ぎない。
ここで、なぜ九百年も蓋をされていた「天皇」号が光格天皇に贈られたかという疑問が残る。
この号は、朝廷が幕府に申し出て、その承認の下に贈られる。
「天皇」号の復活は天皇が日本において「極尊」であり、特別の権威的存在であることを宣言するものである。
光格天皇は、天皇家の権威復興に熱意を燃やした人物であった。
天皇の「叡慮」の下、多くの神事・朝儀が再興された。
焼失してしまった御所の再造営の建設案にも「叡慮」が伝えられた。
外圧の高まりに幕府は朝廷の権威を利用することを思いつき、攘夷に燃える人々も朝廷の権威を利用しようとした。
天皇の意思と外的環境の変化により天皇の権威はたかまっていった。
幕府の「下心」を逃がさず、さっと逆利用した公家の手腕は見事である。
「幕末の天皇」藤田覚(講談社新書メチエ)
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