この頃の写真は湿板法といって、撮影の際に良質で厚さが均一のガラス板が不可欠であった。その意味でガラス職人と舎密研究者の結びつきはベストマッチであった。
文久三年(1863年)、与平衛は紙写真の製造に成功する。江戸で鵜飼玉川が写場を開いた年に遅れること2年後の快挙であった。
その後、不安定な政局の中、もっとも危険地帯であった京にあって掘与平衛は写真師として成功していく。
以上は、ほとんどが『写真事始め』の抜粋であるが、著者は宇高随生氏。
初版が1979年であるから、もうかなり昔のことになる。当時において、写真黎明史の研究は画期的であったと思う。
写真史に興味がある方には一読をお勧めします。
以上の事で個人的に興味を抱いたのは、与平衛と礼輔、博高らの結びつきである。
上野彦馬には堀江鍬次郎という津藤堂藩の舎密師がいたが、彼らの師は長崎海軍伝習所のポンペであった。
明石博高は、京都舎密局の校長となるが、その時にはポンペの後任でもあったハラタマやワグネルなどの学者が招かれた。
ワグネルは島津製作所の設立にも影響のあった人物であり、脈々と続く日本化学史の混沌としながらも希望に満ちあふれた時代を想像させる。
写真事始め 宇高随生 柳原書房
↓ よろしかったらクリックをお願いします。
