十字軍の遠征


(聖地イェルサレム)

 

 イェルサレムはパレスチナの中心にあって古代のユダヤ人の国ブライ王国の首都であり、ユダヤ人の神ヤハウェの神殿が建てられた聖地である。またキリスト教徒にとってはイェルサレムはイエス=キリストが布教した聖地であり、イスラム教ではムハンマドが昇天したと言われる聖地である。

 十字軍の遠征はこのイェルサレムの支配をめぐるキリスト教徒とイスラム教徒の争いである。


(ヨーロッパの膨張の動き)


     西ヨーロッパでは11世紀ごろから封建社会も安定して生産力も高まり、人口も増大して西ヨーロッパ以外への膨張の動きが見られるようになった。キリスト教も広まり、教会の権威が高まるにつれてイェルサレムやローマなどへの聖地巡礼熱がさかんになった。


東ドイツ方面では東方のエルベ川以東の地への植民活動が盛んになった。ドイツ騎士団などがそれである。ドイツ騎士団は12世紀には聖地イェルサレムに巡礼するキリスト教徒を護衛して病院を設立する目的で創られた。またプロイセンなどを支配して東方遠征の先駆けとなった。そのほかにテンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団などもある。

 南フランスでは異端派のアルビジョワ派がフランス王に討伐された。これはアルビジョワ派十字軍と言われる。

 イベリア半島にもイスラーム勢力が進出したので、キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復)運動が展開されてのち15世紀スペインやポルトガルが成立する。

 ドイツだ騎士団の植民活動、アルビジョワ派討伐、レコンキスタ運動もひろい意味での十字軍ということができる。


(十字軍遠征の原因)


 西アジア方面では7世紀にアラビア半島からムハンマドによって創始されたイスラム教が台頭してきて緊張関係が生まれてきていた。イスラム教国セルジューク・トルコはビザンツ帝国が支配する小アジアを占領したのでビザンツ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇への救援を求めてきた。

 1054年以来、キリスト教世界はローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会とビザンツ皇帝の支配するコンスタンティノープル教会(ギリシア正教会)は聖像崇拝問題(ローマ・カトリック教会はゲルマン人への布教の必要から聖像崇拝を認めたがギリシア正教会は聖像崇拝を禁止するイスラム教の影響から聖像を禁止した)などで対立して分裂していた。ローマ教皇としては分裂していたギリシア正教会を統一する良い機会であった。

 セルジューク・トルコが聖地イェルサレムの占領すると、聖地を回復することを目的として教皇ウルバヌス2世は1095年クレルモン宗教会議を開いて十字軍の遠征を提唱した。

 主要なものでも7回の遠征があった。1096年の第1回十字軍から1270年の第7回十字軍まで約200年にわたって行われた。

 十字軍は西ヨーロッパのカトリック勢力による西アジアのイスラム世界に対するの軍事行動である。参加した軍人が胸に十字の印をつけたからそう呼ばれた。

 では一般的に十字軍として知られている聖地イェルサレムを目指した十字軍の経過を見てみよう。


1回十字軍(109699)

 

 ローマ教皇ウルバヌス2世は1095年クレルモン公会議を開催して十字軍の遠征を提唱した。「あなた方は東方に住む同胞に大至急、急援を送らねばならないということでる。・・・・ペルシアの住民なるトルコ人が彼ら(キリスト教徒)を攻撃し・・・・多くの住民を殺し、あるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の王国を荒らしまわっているのである・・・わたしたちの土地からあのいまわしい民族を根絶やしにするよう・・・」(橋口倫介「十字軍」)

 また教皇は遠征に参加するものは贖宥(罪の赦し)の特権を得られるとして軍隊を募集した。

1096年、ウルバヌスの呼びかけに応じたフランスのロレーヌ地方のゴドフロワなどが率いるフランス・イタリアなどの諸侯・騎士たちとそれに巡礼者も同行して第1回十字軍が起こされた。

 イェルサレムを支配していたのはイスラムのセルジューク朝トルコであったが十字軍の遠征に乗じてエジプトのカイロを首都にシーア派イスラム教国家のファーティマ朝が占領した。

 十字軍はファーティマ朝と戦い、1099年イェルサレムを陥落させてゴドフロワを国王としてイェルサレム王国(1099-1291)を建国した。

 城内に突入した十字軍兵士は大虐殺を行い、略奪をほしいままにした。7万人以上が虐殺されたという。

イスラム教徒だけでなく、ユダヤ人もその犠牲となった。

 この第1回十字軍と並行して民衆たちの宗教的情熱によって民衆十字軍を組織されたが統制力を持たなかったので多くはトルコ軍に討たれた。


2回十字軍(114749

 イェルサレム王国のエデッサ伯領がトルコ人に滅ばされると、シトー派修道会のベルナールの呼びかけによってフランス王ルイ7世(在位1137−1180)ドイツ王コンラート3世(在位1138−1152)などが主力となって遠征したがイスラムの拠点ダマスクス攻略に失敗してルイ7世らは帰国した。


3回十字軍(1189−92

 エジプトのアイユーブ朝のサラディン(在位116993)がイェルサレム王国を占領したので、ローマ教皇は十字軍の派遣を呼びかけた。フランス王フィリップ2世(在位11801223)イギリス王リチャード1世(獅子心王。在位1189−1199)ドイツ王フリードリヒ1(赤髭王。在位1152−1190)が軍を率いて参加したがフリードリヒは小アジアで事故死すると多数のドイツ兵引き上げた。フランス王とイギリス王は不仲であった。アッコンを回復した後、フィリップ2世は本国に引き揚げてしまった。単独で戦うことになったリチャードは聖地回復することができずサラディンと和睦して引き返して聖地奪回は成功しなかった。

 サラディンは十字軍が蛮行を繰り返したのに対して無用な殺傷は行わず、モスクに付けられた十字架を引き倒してキリスト教徒の支配の終了を宣言しただけだといわれる。キリスト教徒からも「真の勇者」と讃えられた。


4回十字軍(1202−04

 教皇インノケンティウス3世はローマ・カトリック教会とビザンツ帝国のギリシア正教会との統一を望み、彼が提唱した十字軍はきたフランスの諸侯軍を中心に編成された。本来イェルサレムに向かうはずの十字軍がヴェネツィア商人の利害に引きずられてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させてここにラテン帝国を成立させた。ここは東西貿易の中心地として繁栄していたのでヴェネツィア商人たちはここを支配下に収めようとしたのである。ヴェネツィア商人は諸侯軍に輸送を請け負ったが彼らが運賃を払えなかったので諸侯軍はヴェネツィア商人のコンスタンティノール攻略の要求を受け入れたのである。

 このことによってローマ・カトリック教会とコンスタンティノープル教会の対立はいっそう激化した。

ビザンツ帝国の一族は小アジアにニケーア帝国を建国してラテン帝国と対立した。


5回十字軍(1228−29

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位1215−50)によって起こされたのが第5回十字軍である。フリードリヒはイスラム教もキリスト教も併存していたシチリア出身だったので外交交渉による平和解決を目指した。エジプトのイスラム王朝であるアイユーブ朝のアル・カミールとの交渉によりイェルサレムを回復してイェルルサレムはキリスト教とイスラム教が約10年間ほど共存したが両教徒からの批判を浴びて、イェルサレムはやがてトルコ人に奪われた。


6回十字軍(1248−29

 フランスの信仰に厚いルイ9世が提唱した十字軍でエジプトのアイユーブ朝と戦い、マムルーク軍を中心とするイスラム軍に敗北してルイ9世も捕虜になった。このころエジプトではクーデタが起こってマムルーク朝が成立した。ルイ9世は身代金を払って釈放された。


7回十字軍(1270

 フランス王ルイ9世が提唱してチュニスを攻撃したが失敗に終わった。疫病(チフス?)が流行してルイも感染して現地で病死したので十字軍も引き返した。


 西アジアにおけるキリスト教勢力はアッコンのみとなり、アッコンも1291年にイスラム勢力に占領されて約200年にわたる十字軍の遠征は失敗した。


(十字軍の遠征の影響)

 十字軍の遠征は失敗に終わり、それを提唱した教皇の権威は失われ、従軍した諸侯や騎士は戦死したり、戦費がかさみ没落した。それに対して王権は伸長して中央集権体制が成立していくことになる。

 経済的には十字軍の遠征によって交通路が発達して、十字軍の輸送にあたったヴェネツィアなど北イタリア諸都市が繁栄した。貨幣経済が発達して東方貿易(アジアから絹織物・胡椒などの流入)が盛んになり、従来の荘園制度を基礎とする封建制度は崩壊した。文化面ではイスラム文化(医学・数学などのイスラムの学問)やビザンツ文化がヨーロッパに流入した。