(ゲルマンみんの大移動)
ヨーロッパは東はウラル山脈、西は大西洋、南は地中海沿岸までをさす。
インド・ヨーロッパ語族とウラル・アルタイ語族が主に活動した。
アルプス以北のヨーロッパには前6世紀ごろからインドヨーロッパ語系のケルト人が住んでいた。
スカンジナビア半島南部のバルト海沿岸を原住地としていたインド’ヨーロッパ語族のゲルマン人はケルト人を圧迫しながら紀元前後にはライン川から黒海沿岸、ローマ帝国の境界まで広がっていった。
ゲルマン人は数十の部族に分かれて、それぞれ、1人の王や数人の首長をもっていた。
身分は貴族、平民、奴隷に分かれていて、成人男子からなる民会が重要事項を決定する最高機関であった。
ゲルマン人の社会を知る資料はカエサルの「ガリア戦記」タキトゥスの「ゲルマニア」がある。
人口が増加して、耕地が不足したこと、寒冷化など気候の変化がゲルマン民族の移動の原因とされている。
ゲルマン人はローマ帝政末期にはドナウ川流域まで進出し、ローマの下級官吏や傭兵、コロヌス(小作人)として帝国内に移住する者もあった(平和的移住),
4世紀にアジアのトルコ系(モンゴル系?)の遊牧民フン人(中国北方民族の匈奴か?)が西進してゲルマン人の東ゴート人を服属させ、さらに西ゴート人を圧迫したので、西ゴート人は375年にローマ帝国内に移住した。
これをきっかけに他のゲルマン民族も移動を開始して以後、約200年におよぶ大移動をおこなった。(ゲルマン民族の大移動)。
フン人はアッティラの指導のもとに大帝国を築いたが、451年カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国と西ゴート人の連合軍に敗北した。アッティラ王の死後、帝国は崩壊した。
さてフン人の圧迫でローマ帝国内に侵入した西ゴート人は410年アラリック王のもとでローマを略奪したあとイベリア半島に移動して西ゴート王国を建国した(415〜711)
ブルグンド人はガリア(フランス)東南部、フランク人はガリア北部、ヴァンダル人はアフリカ北部に建国した。アングロ・サクソン人は大ブリテン島に建国してのちアングロ・サクソン七王国(449〜829)を建国した。
このゲルマン人の移動による混乱のなか西ローマ帝国はは476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルに滅ぼされた。
フン人に支配されていた東ゴート人はテオドリック王のもとで脱出してイタリア半島ののオドアケルの王国を倒して東ゴート王国を建国した。
北イタリアにランゴバルド王国が建てられたのを最後に民族大移動は一応終息した。
(アカデミア 世界史 浜島書店)
(フランク王国)
ゲルマン民族の中で最も発展したのはフランク王国でった。
フランク人は481メロヴィング家のクローヴィスによって統一された。かれはキリストは人間であるとする異端派のアリウス派をキリストは神とするローマの正統派アタナシウス派に改宗したことによってローマ系住民と
カトリック教会の支持を獲得した。
このことによってフランク王国はローマ人貴族を支配層にとりこんで西ヨーロッパに発展するきっかけをつくった。
(325年ローマ皇帝コンスタンティヌス帝が小アジアのニケーアで教会の代表を集めた公会議を招集して父なる神と子なるイエスを同質と主張すうアタナシウス派を正統とし、キリストの人間性を認めたアリウス派を異端とした)
フランク王国は6世紀にはガリア東南部のブルグンド王国を滅ぼしてガリア全土を支配した。
8世紀になるとメロヴィング朝は衰退し、王家の行政や財政を担当した宮宰が実権を
握った。
7世紀のアラビア半島ではメッカ生まれのムハンマドが創始したイスラム教が広まって、アラビア半島、西アジア、アフリカ北部からイベリア半島まで広がった。イスラム王朝のウマイヤ朝(661〜750)はシリアからアフリカ北部からイベリア半島に侵入し、ここにあったゲルマン人の西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国に侵入したがカロリング家の宮宰カール・マルテルは732年トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の軍隊を破ってイスラムの侵入を防ぎ、キリスト教世界を守った。
(アカデミア世界史 浜島書店)
カール・マルテルの子ピピンは751年メロヴィング朝を倒してカロリング朝を創始した。ローマ教皇に寄進してローマ教会との関係を深めた(ピピンの寄進。ローマ教皇領の始まり)
ピピンの子がカール大帝(在位768〜814)である。
カール大帝はイタリアランゴバルド王国を滅ぼし、北東のザクセン人、東のアヴァール人、南のイスラム教徒を撃退し、フランク王国の領土は旧西ローマ帝国領ほどになった。 カールは全国を州に分け地方は有力豪族を伯に任命して巡察使に伯を監察させた。
ローマ・カトリック教会の教皇レオ3世は800年カール大帝にローマ皇帝の帝冠を授けた(西ローマ帝国の復興)
ここにキリスト教、ゲルマン人、ローマ古典古代文化の要素は結合して西ヨーロッパ中世世界がうまれた。
皇帝権は「ローマ皇帝権」に「キリスト教保護者」意味が加わった。1つの帝国に教権(教会など)を代表する教皇と俗権(政治・経済・軍事など)を代表する皇帝が並立することになった。
西ローマ帝国がゲルマン人の侵入によってフランク王国に統一されて東ローマ(コンスタンティノープル)教会から独立してローマ教皇を首長とするローマ・カトリック教会が成立したのに対して、東ローマ(ビザンツ)帝国は皇帝を首長とするギリシア正教会となって11世紀には両者は分裂した。