(中東戦争)
第二次世界大戦後、国連総会は1947年、パレスチナをユダヤとアラブの2国家に分け、イェルサレムを国際管理下に置く決議を採択した。
国連のパレスチナ分割決議を受け、1948年にユダヤ人の国イスラエルが建国を宣言したが、建国は新たな混乱の始まりでもあった。約100万人のパレスチナ人(パレスチナに住むアラブ人)が難民となった。イスラエルの存在を認めないアラブ諸国は建国の翌日に攻撃(第1次中東戦争)を始めたが、イスラエルが勝利した。
1952年にはナギブ・ナセルらによる小公団が王制を倒し、53年共和制を樹立した。まもなくナセルが大統領になると積極的中立政策を唱えて社会主義国に接近して国内の近代化を促進するためにアスワン•ハイダムの建設に着手した。イギリス・アメリカはナセルの外交姿勢に反発してエジプトへの経済援助を停止した。ナセルは1956年スエズ運河の国有化を宣言した。これに対してイギリス・フランス・イスラエルは軍事行動を行った。これが第2次中東戦争(スエズ戦争)である。しかしこの軍事行動は世界世論の批判を浴び、アメリカ・ソ連も警告したのでイギリス・フランス・イスラエルの3国は撤退した。この結果エジプトはアラブ諸国の指導的地位についた。
1967年エジプトのナセル大統領がアカバ湾を封鎖するとイスラエル軍が奇襲して第3次中東戦争が勃発した。イスラエル軍は圧勝してその領土を5倍に拡大した。その結果。パレスチナ難民は100万人に達した。
1973年には第3次中東戦争での失地回復を目指してアラブ側のエジプト・シリアとイスラエルが戦争を行なった。これが第4次中東戦争である。
この時サウジアラビアなどアラブ石油輸出機構(OAPEC)はイスラエルを支援する諸国に対して石油輸出停止などを行なった。また石油輸出機構(OPEC)は原油価格の大幅値上げを決定したため先進工業国に大きな打撃を受けた。(第一次石油危機・オイルショック)。日本では物価が4倍上がった。
トイレットペーパーを生産する際、溶かした原料を乾かすために重油が用いられるため、原油の値上がりでトイレットペーパーがなくなるのではないかという不安から買占め騒動が起こった。

(アカデミア世界史 浜島書店)
これらの中東戦争を経てイスラエルはガザ、東エルサレム、ヨルダン川西岸などに占領地を広げたため大量のパレスチナ難民が発生した。
以後も難民帰還などの交渉は停滞してパレスチナ人の不満はインティファーダ(イスラエルの占領地においてパレスチナ住民により組織的に展開された占領支配に抵抗する運動。 語義は,「頭を上げる」「(恐怖を)振り払う」から転じて「蜂起」を意味することとなったアラビア語)として噴き出した。
1993年アメリカのクリントン大統領の仲介でパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長(当時)とイスラエルのラビン首相がパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)でイスラエルとPLOが相互承認をおこなった。それに基づいてパレスティナ暫定自治政府がガザ地区などで始まった。
しかし1995年ユダヤ教急進派によってイスラエルのラビン首相が暗殺された。以後、右派のシャロン首相は(在任2001〜06)は中東和平交渉を停止し、イスラエルとパレスティナの境界領域に「分離壁」を建設した。
その結果、パレスティナ人のイスラエルに対するインティファーダがガザ地区やヨルダン西岸地区に拡大した。
ハマス(パレスティナ解放運動を行うイスラム原理主義グループ)などの自爆攻撃をイスラエルの報復という紛争が続いた。こうしてオスロ合意の枠組みは事実上崩壊した。
ハマスが2007年にガザを武力制圧すると、イスラエル軍は壁を建設して封鎖し、ガザは「天井のない監獄」と呼ばれるようになった。イスラエルはヨルダン川西岸の占領地でもユダヤ人入植地を増やし続け、国際社会の非難を無視。イスラエルとハマスは数年おきに大規模衝突を繰り返した。
このような歴史的背景があって憎悪が憎悪を生む悪循環を断ち切ることができず、現在の2023年10月7日、ハマスが大規模攻撃。その報復としてイスラエルはガザを空爆し、地上戦になり、双方の子どもを含む市民の犠牲者が増えて現在も戦争を継続している。
ウクライナとロシアの戦争もそうだが、国連の指導力の低下が目立った。戦争防止のためには国連の指導力の強化が必要である。
ある国が攻撃されても攻撃された国は報復できないようにして、国連が攻撃した国に武力制裁、経済制裁を加える。そのため国連は世界の国々の総力を上げた超国家的機関として君臨する組織造りが必要ではないか。大国の利害に基づいた現在の国連ではこれからの戦争は防止できないだろう。