(旧約聖書と新約聖書)

 旧約聖書はユダヤ教の教典。イスラエル人の伝承や預言者の言葉がヘブライ語で書かれた。神ヤハウェがユダヤ人を救うために定めた律法。

 新約聖書はキリスト教の経典。イエスによる神と人間の間の救済を前提とした新たな契約。


(ユダヤ教の特色)

  ユダヤ教の特色は一神教であり。ユダヤ人だけが神ヤハウェに救われるという選民思想であること、メシア(救世主)の思想がある。キリスト教ではメシアはイエスを指す。戒律(律法)主義・形式主義などがあげられる。このような排他的なユダヤ教を批判したのがイエスである。キリスト教はユダヤ教を母胎にして生まれた。


(離散の民ユダヤ人ーディアスポラ)

 紀元6年にユダヤ人はローマ帝国に支配下に入った(ローマ帝国はイタリアのローマから発展して現在のヨーローパ全域を支配した)。ユダヤ人はローマ帝国との間でユダヤ戦争(66〜70)が起こってイェルサレム神殿は陥落した。

 そして第2次ユダヤ戦争(132〜135)でユダヤ人はローマ帝国に敗北してイェルサレムから追われ離散の民(ディアスポラ)となった。

 7世紀にはアラビア半島でムハンマドがイスラム教を創始して、その後、イスラム教はアラビア半島からシリア、パレスチナ、西アジア、アフリカ北部、イベリア半島(15世紀キリスト教国のスパイン・ポルトガルが成立)まで広まった。

 イスラム教徒がキリスト教の聖地イエルサレムを占領したので11世紀から13世紀にローマ教皇の提唱によっり十字軍は派遣されることが決定された。(1095年クレルモン会議)。ヨーロッパ諸国は十字軍を組織して大きなものでも7回派遣されてイスラム教徒と戦ったが、聖地イェルサレムの回復は成らなかった。

 その後、パレスチナー「乳と蜜の流れる国ー肥沃な大地」は16世紀にイスラム教国オスマン帝国の支配下に入った。

 19世紀にシオンの丘(パレスティナのイェルサレム)に世界に離散していたユダヤ人の間に国家建設を目指すシオニズム運動が起こって、ユダヤ人の入植も増えたのでそこに住んでいたパレスチナ人との対立が深まった。

1914年に第1次世界大戦(イギリス・フランス・ロシアなど←→ドイツ・オスマン帝国など)が始まると、オスマン帝国と戦っていたイギリスは戦争を有利に進め、各勢力の協力を取り付けるためパレスティナに関して多重外交を行なった。

 その1つがフセイン・マクマホン協定(1915)である。これはメッカの太守フセインとイギリスの高等弁務官マクマホンが取り交わした書簡でイギリスはフセインにアラブ人がオスマン帝国への反乱を企てることを条件にアラブ人にパレスティナへの国家建設を約束した。

 しかし一方でバルフォア宣言(1917年)を発した。これはユダヤ人の財政援助を期待してイギリスはユダヤ人にパレスティナに国家建設を約束した。外務大臣バルフォアがイギリスのユダヤ人協会会長ロスチャイルドに宛てた書簡として表明された。

 またサイクス・ピコ協定(1916)では戦後、ロシア・フランス・イギリスがパレスティナの国際管理をすることを定めた。これらの矛盾する多重外交が戦後、パレスティナをめぐるユダヤ人とアラブ人の対立の原因となった。

 第一次世界大戦後、パレスティナはイギリスの委任統治領となってユダヤ人の入植が進んだ。