世界史(4)ペルシアのオリエント統一とペルシア戦争

(アカデミア世界史 浜島書店)

 

(アッシリア)

 メソポタミア北部のアッシュールを中心に興ったアッシリアは前15世紀にミタンニ王国に服属していた。

 アッシリアは前9世紀、小アジアのヒッタイトから学んだ鉄製武器と騎兵によって周辺諸国を征服し、前7世紀にはエジプトを征服してオリエントを統一した

 その経過をみよう。

 サルゴン2世(在位722〜前705)は前722年パレスティナ北部のイスラエル王国を滅ぼした。

 次いでセンナケリブ王(在位705〜前681)も遠征をおこない、イェルサレムを包囲戦をおこない、さらにバビロンを攻撃した。そして首都をニネヴェに移した。

 アッシュール・バニパル王(在位668〜627)は先代の征服事業を継続して前663年エジプトを征服してはじめてオリエントを統一した。

 しかしかれの死後、アッシリア帝国では重税と過酷な支配、王位継承の争いなどが起こって地方勢力が自立して分裂状態となり、前612年に滅亡した。

 

 アッシリア滅亡後、イラン地方のメディア、現在のトルコ付近リディア、メソポタミアのバビロンを首都とした新バビロニア、そしてエジプトの4王国が並立する時代となった。

(アカデミア 世界史 浜島書店)

 

(リディア)

 リディアは前560年即位したクロイソス王のときエーゲ海沿岸の古代ギリシア植民市を征服して最初の鋳造貨幣を造るなど経済的に繁栄した。しかし前550年メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世(前559〜前562)に敗北して捕虜となり、リディアはペルシアの支配下に入った。

 

(新バビロニア)

 新バビロニアはナボポラッサル王(在位前625〜前605)によりメソポタミア南部のバビロンを首都として建国された。

 新バビロニアは前612年メディア王国と連合してアッシリアの首都ニネヴェを攻撃してアッシリアを滅ぼした。

 そしてネブカドネザル2世(在位前605〜前562)はシリア、パレスティナ方面に遠征した。

 パレスティナでは北部にヘブライ王国はイスラエル王国と南にユダ王国に分裂してたが、イスラエル王国は前722年、アッシリアに滅ぼされた。南のユダ王国は反乱を起こしたのでネブカドネザル2世は前586年イェルサレムの神殿を破壊し、ユダ王国を攻撃して多くに住民を新バビロニアの首都バビロンに連れ去った。これをバビロン捕囚という(前586〜前538)。

 ネブカドネザル2世の時代は「バビロンの栄華」と呼ばれ世界の7不思議の一つとされる空中庭園や旧約聖書の「バベルの塔」とされるジッグラトが造られた。

 

(メディアとアケメネス朝ペルシア)

メディアはイラン北西部を支配したインド・ヨーロッパ語族に属する。

前612年アッシリアの滅亡後はメディア、新バビロニア、エジプト、リディアとともに4国並立の時代になる。

メディアに属していたアケメネス家のキュロス2世(在位559〜前530)はメディアを滅ぼしてアケメネス朝ペルシア建国し、小アジアにあったリディアを滅ぼした。そしてバビロンを首都としていた新バビリニアを滅ぼした。このときバビロンに捕虜となっていたユダヤ人は解放された。ユダヤ人たちはイェルサレムに戻って神ヤハウェの神殿を再興した

 キュロスの後継者カンビュセス2世(在位前529〜前522)はエジプト新王国を征服してアケメネス朝ペルシアは全オリエントを統一した。

 第3代目のダレイオス1世(在位前522年〜前456)のとき西はエーゲ海北岸から東はインダス川にいたるまでの大帝国を建設した。かれは各州にサトラップ(知事)をおいて全国を統一して「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を派遣した。

また金・銀貨を発行して、税制を整備した。地中海東岸にフェニキア人を保護して貿易を促進して経済を発達させた。また「王の道」を整備して交通を発達させて駅伝制をしいた。王都スサから王都サルデスまでの約2500kmの‘「王の道」は20kmから30kmごとに111の宿駅を設置した。駅に宿と馬や食料が備えられた。

 またダレイオス1世はイラン高原に戦勝を記念して楔形文字を刻んだ。これをベヒストゥーン碑文という(地図)

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(ペルシア戦争)

アケメネス朝ペルシアの領土がエーゲ海東岸まで達するとイオニア地方のミレトスなどギリシアの植民市が前500年反乱を起こした(イオニアの反乱)おこした。これをきっかけにギリシアとペルシアとの戦争がおこった。これがペルシア戦争(前500〜前449)である。

  ペルシア軍は前492年にペルシア王ダレイオス1世(前522〜前486)は第1回目のギリシア遠征軍を送ったが嵐のため失敗に終わった。

 ついでペルシアは前490年に第2回遠征軍をおくった。

 アテネを中心とするギリシア軍はミルティアデス率いる1万の中小自作農民で構成された重装歩兵軍に敗北した。これをマラトンの戦い(前490)という。

 アテネ軍の伝令フェイディビデスは戦勝を知らせるためにアテネまで36.75Km走ったという。これがマラソン(マラトンがなまった)の起源である。

 ついでペルシア軍は前480年にペルシア王クセルクセス1世(在位前486〜前465)は

20万の大軍を派遣して自らも第3回の遠征をおこなった。陸上ではテルモピレーの戦いでレオニダス王率いるスパルタ軍はペルシア軍に敗北してアッティカ地方は占領された。

 

 アテネのテミストクレスは市民を避難させてペルシア艦隊をサラミス湾に誘い込み、ここで壊滅させた。これが前480年のサラミスの海戦である。このとき三段櫂船が使用されて無産市民が軍艦の漕ぎ手として活躍したことは後にアテネの民主政治は発展するきっかけとなった。

 

 ペルシアが再び攻めてくると考えられていたころ前482年にアッティカのラウレイオン銀山で豊富な銀鉱脈が発見された。一部の市民は市民で平等に分けるべきだと主張したがテミストクレスは反対してその資金200隻の三段櫂船を建造した。これがサラミスの海戦で活躍してギリシア軍が勝利することになったのである。

 陸ではプラタイアの戦い(前479)でスパルタ・アテネの連合軍がペルシア軍に勝利をおさめた。その後、局地的な戦争が前449年まで続いた、

 こうしてアテネとスパルタを中心とするギリシア軍はペルシア軍を破った。

 ペルシア戦争後、アテネはデロス同盟を組織してエーゲ海を支配した。

(アカデミア世界史 浜島書店)