(鎌倉幕府の成立(4 )

 

(第2代将軍 源頼家)

 

  源頼家は寿永元年(1182)812日頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれた。父は頼朝、母は北条政子である。

 頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企尼の養子の比企能員が選ばれ、乳母には比企一族や有力御家人の妻が選ばれた。頼家の側近は頼朝が比企能員、梶原景時など有力御家人を指名した。

 建久4(1193)5月から6月にかけて頼朝は多くの御家人を集めて富士の巻狩りを行ったが、この目的は狩を通じて将軍の権威を誇示すること、軍事演習、交通路の掌握などであった。

 12歳の頼家も参加して初めて鹿を射たので頼朝は大いに喜んだという。

 この巻狩りの間、曽我兄弟の仇討ちが起こり叔父の源範頼が頼朝に謀反の疑いを受けて流罪に処されることにもなった。

 「曽我兄弟の仇討ち」とは兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした事件である。その原因は伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、工藤祐経と曽我兄弟の祖父・伊東祐親の所領争いであった。この争いの中で、伊東祐親の嫡子、つまり曽我兄弟の父、伊東祐泰が工藤祐経によって殺されてしまう。当時幼かった曽我兄弟は成長し、兄十郎が22歳、弟五郎が20歳の時、仇討ちを遂げた。

 工藤祐経を討ち取った後、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中で首を刎ねられた。

 この曽我兄弟の仇討ちが起こったころ、源義経とともに、平家討伐で活躍した源範頼は謀叛の疑いをかけられて伊豆修禅寺に幽閉されたあと謀殺された。

 この仇討ちが起こり、頼朝も討たれたとの誤報が鎌倉に入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀叛の疑いをかけられたとされる(保暦間記)。しかし、政子の虚言または陰謀であるという説もある。

 範頼の墓は修善寺から山を10分ほど歩いたところにある。

(源範頼の墓)


 建久6(1195)2月、東大寺の落慶(修理の完成を祝う)供養のために頼家は父頼朝と母政子と姉大姫と一緒に上洛した。この真の目的は頼朝が大姫を御鳥羽天皇の妃にするためであった。また頼家自身は6月参内し、都で頼朝の後継者としての披露が行われた。

 しかし、建久8年(1197)大姫は没したので頼朝の大姫入内計画は失敗した。

 

 頼家は比企能員の娘(若狭局)を妻として、建久9年(1198)に長子の一幡が生まれた。源頼朝が(建久10年・正治1)11991月没すると嫡男頼家が18歳で家督を相続し第2代鎌倉殿となった。

 頼家就任後、有力御家人による13人の合議制による政治が行われることになった。これは頼家が訴訟を「直に聴断」するのを停止し、北条時政ら有力御家人による合議で訴訟を行うことを定めたものである。頼家から独裁権を奪うためであった。


(梶原景時の乱)

 正治2(1200)には頼朝の時代に活躍した梶原景時の乱が起こった。景時が廃された経緯について「吾妻鏡」では、頼朝の死を偲んだ結城朝光が「忠臣は二君に仕えずというから出家しておけば良かった。今の政権は薄氷を踏んでいるかのようだ」つぶやいたところ義時の妹阿波局が「この発言が謀叛の証拠であるとして景時が頼家に讒言してあなたは討たれることになっている」と告げた。朝光はあわてて三浦義村らに相談して一夜で66人の連署する梶原景時弾劾状を作成した。これを大江広元を介して頼家に提出した。

背景には景時に対する御家人の不満があったようである。彼は侍所の別当だったが御家人を監視し独裁的であったことや頼家に重用されていたので比企氏などの脅威となったことなどが挙げられる。相模国にいた景時が「謀叛の陰謀あり」と伝わると幕府は追討を決定した。景時は一族を率いて京をめざす途中、駿河国で討たれた。

 建久2(12027月頼家は第2代将軍に宣下された。鎌倉殿になって3年半後のことである。翌年有力御家人であった頼家の義父比企能員の乱が起こった。


(比企能員の乱)

 梶原景時の滅亡から約3年後の建仁3年(1203)比企氏の反乱が起こった。

原因は頼家は比企能員の娘妻若狭局)を妻としており、比企一族を重用した。

頼家の子一幡が成長して幕政を比企氏が握ることを恐れた母政子、祖父北条時政ら北条氏が対立した。

 1203年頼家が重病を患った。「愚管抄」では頼家が危篤になれば、一幡を次の将軍に推挙する比企能員が優勢となるので北条時政は頼家の弟千幡(のちの実朝)推挙して能員を殺害したとしている。

 「吾妻鏡」によると頼家が重病に陥ったので北条時政らは頼家の子一幡と頼家の弟千幡の分割相続を決定した。千幡に相続されることに不満をもった比企能員は頼家に北条氏討伐の密議を相談していたところを政子が立ち聞きして時政に報告して、先手を打った時政は自分の屋敷に能員を呼び出して殺害し一幡の屋敷を攻め、比企一族が滅ぼされたという。


 京都側の記録である「愚管抄」によれば、頼家は大江広元の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは比企能員が有力になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されて埋められたという。


 一幡が殺害され、頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修善寺に幽閉された後、元久元年(12047月北条氏の手兵によって暗殺された。21歳であった。

「吾妻鏡」では頼家の死について、ただ飛脚から頼家の死の報せがあったと短く記している。

 

 「愚管抄」によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという。南北朝期の史書である「保間記」には入浴中に殺害されたとしている。

 頼家の評価については「吾妻鏡」では頼家を遊興にふけり、家臣の愛妾を奪おうとする暗君として書かれている。これは北条氏側の記述である「吾妻鏡」なのであまり信用できない。

 慈円の「愚管抄」では頼家は評判が良かった記述しているし、鎌倉時代前期の歴史「六代勝事記」では「百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり」と記されている。