鎌倉幕府(3)

(反平氏運動)
 このころから反平氏の運動が起こってきた。
 治承4年(1180)後白河上皇の皇子以仁王が平氏追討に令旨(皇族の命令を伝える文書)をだして、源頼政らと挙兵した。
 頼政は保元・平治の乱の勝者で平清盛に信頼されていた源氏の棟梁であり平清盛から信頼されて出世した。しかし平家の専横に対して不満が高まり、後白河上皇の皇子以仁王と挙兵しようと計画して諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えたが計画は露見し準備不足のまま蜂起したが平家の追討を受けて宇治平等院で敗北して自害した
 以仁王は後白河上皇の皇子で幼少から英才誉れ高く学問や詩歌、特に書や笛に秀でていた。母の実家は藤原氏で家柄も良く、皇位継承において有力候補であったが、「平家物語」によると異母弟の憲仁親王(後の高倉天皇)の母平時子(建春門院)が妨害したという。安徳天皇が即位したことで以仁王の皇位継承の可能性は消滅した。
 このような事情で源頼政は以仁王と挙兵したが失敗して皇族籍を奪われ土佐に配流され、のちに討たれた。
 以仁王・源頼政の挙兵をきっかけに北条時政・義時など東国武士らは平氏打倒のため挙兵した
 やや遅れて頼朝も蜂起して時政らと平家方の伊東目代(代官)山本兼隆を破ったが、相模国石橋山(現在の小田原付近)で平家方の大庭景親軍に敗北した。これが治承4年(1180)8月の石橋山の戦いである。この戦いで頼朝軍は大敗し、時政の長男宗時は戦死した。
 頼朝は箱根から真鶴へ逃れ、船で安房国へ脱出した。
一方、時政と義時は頼朝の命により甲斐源氏の武田氏、安田氏を味方にするため甲斐に向かい武田信義・一条忠頼らに頼朝の伝言を伝えた。
 その後、駿河国の目代橘遠茂が追撃してきたので、武田信義らは橘氏の軍と戦い、勝利をおさめた。
 安房国に逃れた頼朝は下総の千葉常胤、上総広常を味方にして東国の武士を従えて10月、鎌倉に入った。
 鎌倉入りした頼朝は追討のため下った平維盛軍と富士川を挟んで対峙した。夜襲の気配で飛び立つ水鳥の羽音に驚いた維盛軍は敗走した。これが治承4年(1180)10月の富士川の戦いである。
 頼朝は平家軍を追撃しようとしたが上総広常など関東の武士は頼朝の上洛を諌めた。以後、頼朝は鎌倉を拠点に幕府の基礎を固め、関東8カ国を平定した。12月に侍所に311名の武士を集め、頼朝は鎌倉殿として、御家人を支配することになった。
 富士川の戦い直後、黄瀬川八幡の地に本營を置いて奥州平泉から駆けつけた異母弟の義経と対面した。義経22歳、頼朝34歳の時であった。頼朝は義経を歓迎したが後に対立することになる。
 ここで義経について述べてみたい

(義経の動向)
 義経は平治の乱後、母の常盤御前(義朝の側室)に連れられて奈良に逃れた。常盤御前は7歳の今若、5歳の乙若、乳飲子の牛若(義経)をともなって逃れた。兄2人は出家し、常盤御前は公家の一条長成と再婚した。義経は11歳で鞍馬寺に預けられ天狗に武芸を教わったという。この時武芸を学んだことが平氏との戦いでの活躍に生かされた。
 16歳で鞍馬寺内を出て一条長成の遠縁に当たる奥州藤原基成(秀衡の舅)に頼った。奥州は金を産し、北との交易で栄えて有力な国あった。義経はここで6年暮した。
 その後、富士川の戦い直後に黄瀬川で頼朝と対面したのである。
  治承5年(1181)2月、清盛は熱病で死亡して(64歳)清盛の3男宗盛が平家を率いることになった。宗盛は政権を後白河上皇に政権を返上したので上皇が実権を握り、院政が再開された。
 北陸から上京する源義仲軍と京都から派遣された平維盛軍が倶利伽羅峠(砺波山)で衝突した(寿永2年、1183年5月倶利伽羅峠の戦い)。義仲は平家軍に勝利して7月入京した。平家は都落ちして平宗盛率いる平氏は安徳天皇を連れて西国に逃れた。
 平氏一族が去ると義仲は入京して後白河と面会した。
 義仲は以仁王の皇子北陸宮の即位と味方への恩賞を求めたが拒否され、後白河は孫尊成親王(後鳥羽天皇)を即位させて自らは上皇として院政を再開した。
 義仲軍は京都で略奪、乱暴、狼藉をはたらいたため、後白河法皇と対立した。後白河は頼朝に義仲追討の院宣を出した。その報賞として頼朝に東国の支配権を付与する約束をした(1183年10月)
 義仲は後白河に頼朝追討の院宣を出すように迫ったが拒否されたので後白河の法往寺殿を襲撃して法皇を捕らえて幽閉した。
 源範頼、義経軍は1184年正月、入京して上皇を救出し、義仲は近江国粟津で追撃してきた義経配下の石田為久に討たれた。          
 範頼・義経が入京すると後白河は平氏追討を命じた。

平家は西国で勢力を回復して摂津国福原に集結し、西方一の谷に陣をかまえた。範頼軍は山陽道を南下し生田口を、義経軍は丹波道を西へ進み一ノ谷口を目指した。義経は背後の鵯越の崖から奇襲して平家を屋島に敗走させた。あと土肥実平、多田行綱などの活躍もあった(元暦1年、1184年2月一の谷の戦い)

(歴史人 2022 年2月号)


 平家の惣領平宗盛、亡き清盛の妻二位尼(平時子)に抱かれた安徳天皇の平家軍は讃岐国屋島に敗走したが敗北した(文治1年、1185年2月屋島の戦い)
 さらに長門国壇ノ浦(現在の下関)で平家軍は義経軍に敗北して平家は滅亡した(文治1年、1185年3月壇ノ浦の戦い)。この戦いで敗戦が濃厚になると亡き清盛の妻、時子は3種の神器のうち宝剣を腰に差し、神璽を脇にはさみ、安徳天皇と入水した。安徳天皇の母建礼門院(平徳子)も天皇と入水したが源氏に救助されて京都に送られた。出家して大原の寂光院で高倉・安徳両天皇の冥福を祈りながら余生を終えた。平宗盛は捕虜となり処刑されて平氏は滅亡した。