ロシア革命)
ロシア革命は社会主義思想に基づく革命である。
社会主義者にはイギリスのロバート=オーウェン、フランスのサン・シモン、フーリエ、ルイ=ブラン、ドイツのカール=マルクス、フリードリヒ=エンゲルスなどがいる。
ロバート・オーウェンはスコットランドのニューナラナークで紡績工場を経営して労働環境を改善することによって人間性の回復を目指し、自分の経営する工場の労働者の福祉の向上に努めた。
そしてアメリカでニューハーモニーと呼ばれる理想社会の建設を試みたが失敗した。帰国後は工場法の制定に力を尽くし、全国的労働組合大連合会を組織した。
サン・シモンはアメリカ独立戦争に参加し、労資の対立より人間の能力を自由に発揮できる社会をめざした。
フーリエは協同組合的理想社会を目指した。
ルイ・ブランはフランスの二月革命後(1848)臨時政府で活躍して「国立作業場」の設置して失業者を土木事業に従事させるなどしたが、仕事がなくても日給が支給されるなどしたため、ブルジョワや農民などは反感を持った。
4月に行われた男子普通選挙で社会主義勢力の進出をおそれた有産市民や農民がブルジョワ共和派を支持したため労働者などの社会主義勢力は惨敗した。6月、ブルジョワ共和派が国立作業場を閉鎖したので社会主義者・労働者らは暴動(六月蜂起)を起こしたが政府のヴェニャックの軍に鎮圧された。
ルイ・ブランはこの六月蜂起の後、ロンドンに亡命した。
彼らは空想的社会主義者とよばれている。
これに対してマルクス、エンゲルスは科学的社会主義者とよばれた。
マルクスとその協力者エンゲルスは「資本論」などの著作を通じて、資本主義の矛盾を研究して、唯物史観などを大成して科学的社会主義を創始した。
1848年2月にはマルクスとエンゲルスはロンドンで「共産党宣言」を発表して人類の歴史を階級闘争の歴史と捉えて、資本主義社会の打倒と社会主義社会の建設のために「万国の労働者よ、団結せよ」と言って労働者の国際的連帯をを呼びかけた。
すなわちマルクスは産業革命で成立した資本主義社会では資本家は富裕となり、労働者には貧困をもたらすものとして、労働者階級(プロレタリアート)が資本家階級(ブルジョワジー)を武力革命によって打倒して富を国民全員に平等に分配することによって、格差のない平等な社会である共産主義社会を建設べきだと考えた。
このマルクスの影響を受けてロシア革命を指導したのがレーニンである。
(ロシアの政党と第一革命)
ドイツ(プロイセン)のビスマルクはフランスとの戦争(普仏戦争1870〜71)でフランスを破ったので、フランスの復讐を避けるため、国際的に「フランス孤立化」政策を行った。
しかし、かれの辞職後、この政策は崩れた。すなわちロシアはフランスと露仏同盟(1891〜94)を結んだ。ロシアはフランス資本によりシベリア鉄道の建設を行い。極東へ進出し、日本やイギリスと対立した。この結果、日露戦争(1904〜05)が起こることになる。
またロシアは南下政策によってバルカン半島へも進出し、オーストリアやイギリスと対立して、バルカンは「ヨーロッパの火薬庫」とよばれてここから第一次世界大戦(1914〜18)が勃発する。
ロシア国内では19世紀末には資本主義が発達して工業生産も増え、労働者も増加して社会主義思想の影響を受けて政党が生まれた。
1898年にはマルクスの影響を受けた社会民主労働党が結成された。この政党は1903年プレハーノフやマルトフらのメンシェヴィキ(ロシア社会民主労働党内の右派でブルジョワ勢力も含む広い大衆を支持基盤としブルジョワ民主主義革命を経てから社会主義革命をめざした)とレーニンのボリシェヴィキ(少数の革命家による武力革命を説いた)に分裂した。
(アカデミア世界史 浜島書店)
また1901年にはナロードニキの流れをくむ社会革命党、1905年に地主やブルジョワジーの支持する立憲民主党が結成された。
ナロードニキとは1861年のアレクサンドル2世の農奴解放令が不十分だったこともあり、知識人であるインテリゲンツィアが農村の中に入って啓蒙活動を行い、ロシアの皇帝による専制政治であるツアーリズムを打倒して農村共同体を基盤とした社会建設をめざした人々をいう。
ロシアの極東進出により満州や朝鮮をめぐって先ほど述べた日露戦争(1904〜05)が起こった。この日露戦争で敗戦が続いたロシアでは1905年1月生活難で苦しむ民衆が平和請願のデモを行ったがこれに対して軍隊が発砲して2000人を超える死傷者が出た。これを「血の日曜日事件」という。この事件をきっかけにストライキが全国に波及し、6月には黒海艦隊に属していたポチョムキン号の水兵の反乱も起こった。
(アカデミア 世界史 浜島書店)
その結果、労働者と兵士の会議である「ソヴィエト」が各地に結成された。
自由主義者のヴィッテのすすめもあり皇帝ニコライ2世は「十月勅令」を発布して国会(ドゥーマ)の開設や憲法制定などを約束したので革命の動きは沈静化していった。
1906年、国会は開会され、憲法も発布されたが、ストルイピンが首相になると議会を解散し革命の動きを弾圧し、農民の反抗の基盤とみなしていた農村共同体(ミール)を解体して自作農を創設したが、多くの農民は農村労働者になるか都市に流出するなどして、かえって農民は貧困化して社会不安が高まった。
(ロシア三月革命・十一月革命)
ロシアでは第一次世界大戦(1914〜18)が始まると協商国(イギリス・フランスなど連合国)側にたって参戦していたが、戦争が長期化して物資が不足し、国民生活は窮乏化していった。
戦争では最前線の戦闘員だけではなく、食料や武器をつくるために女性や少年など国民全員を動員して戦争を遂行する総力戦体制がしかれて国民の日常生活が統制された。
ドイツとの戦争で軍隊の損害も大きく、戦死者の数も増加し、戦闘員を補充するために、農村の働き手を大量に動員したので農村の生産力は低下して農民の生活は窮乏化した。
一方首都ペテログラードなどの都市の住民もロシアの鉄道輸送が戦争優先にされてしまったために、穀物の輸送が滞り、穀物が不足した。
1917年3月8日。ロシアの首都ペトログラードで、食糧配給を求めるたくさんの労働者がストライキを起こし「パンをよこせ」の要求から始まり、「戦争反対」や「専制打倒」を叫んで、これが各地に拡大していった。
皇帝ニコライ2世は、このデモ隊の鎮圧を指示したが鎮圧に向かった兵士たちも反乱を起こして労働者側についた。兵士たちも長期化した戦争で疲弊していたのである。
このような動きは他の都市にも広がっていき、労働者や兵士を代表して革命を指導する「ソヴィエト」(労働者と兵士の会議)が各地で結成された。かれらは戦争の中止を目指すことで生活苦が無くなると考えた。
皇帝に対して政策への助言などを行っていた国会はリヴォフ公を首班とするメンバーにより臨時政府が樹立して皇帝ニコライ2世が退位した。
そして次の皇帝に弟ミハイエルを指名したが弟が即位を辞退したため、300年続いたロマノフ王朝(1613〜1917)は滅亡して、ロシアの専制政治(ツアーリズム)は打倒された。これを三月革命(ロシア暦では二月革命)という。
臨時政府はブルジョワジーや地主を中心とする立憲民主党が中心に一部の社会革命党が加わり、戦争を継続した。政府は食料危機や土地改革問題を解決できずに民衆の不満が高まった。
全国各地のソヴィエトはメンシェヴィキと社会革命党左派が有力であった。
このようにロシアは臨時政府とソヴィエトという「二重権力」が存在した。
社会主義革命を目指して弾圧され国外に亡命していたレーニンは4月、スイスから帰国してボリシェヴィキを指導して、戦争を継続する臨時政府に対して「戦争の即時停止」「すべての権力をソヴィエトへ」などを内容とする「四月テーゼ」を発表した。
ボリシェヴィキは最初、ソヴィエト内では少数派であって7月の武装蜂起は失敗して弾圧された。
しかし9月に将軍コルニロフの反乱が起こると、臨時政府はボリシェヴィキに支援を求めたので、ボルシェヴィキは有力となった。
7月に臨時政府の首班になっていた社会革命党右派のケレンスキーに対して、ボリシェヴィキのレーニン・トロツキーらは武装蜂起して臨時政府を倒した。これが十一月革命である。
そして全ロシア=ソヴィエト会議を開かれて新政府である人民委員会議(ソヴィエト政権)を樹立した。
議長にレーニン、外務人民委員のトロツキー、民族人民委員にスターリンが選出された。
この新政府は、地主の土地を無償で没収する「土地に関する布告」、第一次世界大戦の交戦国に対して無併合・無賠償・民族自決の講和原則の「平和に関する布告」を呼びかけたが拒否されたので、1918年3月ドイツと単独にブレスト=リトフスク条約を結んで戦争から離脱した。
(ソヴィエト連邦の成立)
ボリシェヴィキは銀行や鉄道など重要産業の国有化、地主の土地を没収して農民に分配、外債の破棄、民族自決宣言を行った。
しかし1917年11月憲法制定議会の普通選挙で社会革命党が過半数を獲得して第一党となると、18年1月、レーニンはボリシェヴィキを率いて武力で議会を閉鎖して他の政党を禁止した。これによってボリシェヴィキのプロレタリア一ト独裁が確立し、「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」を宣言した(1922年にウクライナなどを合わせてソヴィエト社会主義共和国連邦が成立し、ペテログラードからモスクワに首都が移された)