世界史入門(イスラーム帝国の分裂)
(後ウマイヤ朝とスペイン・ポルトガルの繁栄)
イベリア半島ではゲルマン人の国、西ゴート王国(地図資料①)が成立していたがイスラームのウマイヤ朝時代(地図資料①)にイスラーム教に改宗したベルベル(ムーア)人がアフリカ北部からイベリア半島に侵入して、西ゴート王国を滅ぼした(711)。それ以来、イベリア半島の大部分がイスラーム教徒の支配下に入った。
地図資料①(アカデミア 世界史 浜島書店)
ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされるとウマイヤ家のアブド・アッラーフマン1世(在位756〜788)アフリカ北部からイベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝(756〜1031地図資料②)を建国して首都をコルドバに定めた。
後ウマイヤ朝は第3代のアブド・アッラーフマン3世(在位912〜961)の時代が全盛期であった。コルドバの人口は50万人となるなど大都市に発展して経済・文化が発展した。
外征ではアフリカ西北部のマグリブを支配してアッバース朝に対抗してカリフと称した。
後ウマイヤ朝はアッバース朝の東カリフ国に対して西カリフ国という。
地図資料②(アカデミア 世界史 浜島書店)
しかし、現在のフランスにあたる地域はフランク王国というゲルマン人の王国があってキリスト教(ローマ・カトリック教)と結びついて発展していた。イスラーム教国のウマイヤ朝の時代にこのフランク王国とトゥール・ポワティエ間の戦い(732年。地図資料②)で敗北していた。
やがてフランク王国は8世紀に西フランク(現在のフランス)、東フランク(現在のドイツ)、イタリアに分裂したがいずれもキリスト教(ローマ・カトリック)教国であった。
イベリア半島のイスラーム教徒の支配に対して北部では10世紀にカスティリャ王国が成立し、11世紀にはアラゴン王国が成立した。これらのキリスト教国は南部のイスラーム教徒から土地を回復しようとする国土回復(レコンキスタ)運動を展開してイスラーム教徒と戦った。
地図資料③(詳説 世界史 山川出版社)
アラゴン王子フェルナンド(在位1479〜1516)とかスティリヤ女王(在位1474〜1504)が結婚してスペイン王国が成立した(地図資料③)。
スペインのイサベル女王のもとでイスラーム教徒の拠点であったナスル朝のグラナダが陥落して(1492)イスラーム教徒はイベリア半島から一掃されて国土回復(レコンキスタ)運動は終了した。
イサベル女王はコロンブスを援助して新大陸の発見(1492)もたらした。以後スペイン人は中南米の銀を採掘して繁栄した。
またカスティリヤ王国からポルトガルが独立して、首都リスボンは貿易の中心となって繁栄した。
ポルトガルはエンリケ王子の西アフリカ探検、バルトロメウ・ディアスのアフリカ南端の喜望峰到達(1488)、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見などを行い、香辛料貿易を独占して繁栄した。
(アッバース朝とイスラーム帝国の分裂)
アッバース朝(地図資料④)は東西貿易で繁栄してハールーン・アッラシード(在位786〜809)の時代、首都バグダードは人口150万人であった。
この王朝の時はアラブ人だけでなくイラン人やトルコ人などの平等化が進んだ。
ハールーンの死後、地方のイスラーム王朝が独立してイラン東部にサッファール朝(867〜903)、中央アジアとイラン高原にはナスル1世が創始したイラン人のサーマン朝(875〜999)、これを滅ぼした東方のトルコ人のカラハン朝(10〜12世紀)がおこった(地図資料④)
また、アフガニスタンには同じトルコ人のガズナ朝(962〜1186)がおこって、北インドに侵入して以後、インドのイスラーム化が進んだ。
サーマン朝の西部、イラン・イラク地方にはイランの軍事政権であるブワイフ朝(932〜1062)が成立したが、946年アッバース朝の首都バグダードに入城(地図資料④)してカリフからイスラーム教法執行の権限を与えられた。大アミールと称して政治・軍事の実権をにぎった。
地図資料④(アカデミア 世界史 浜島書店)
アラル海の北部から中央アジアを拠点にトルコ人が進出した。彼らは10世紀ごろイスラーム教に改宗してトゥグリル・ベク(在位1038〜63)はセルジューク朝(1038〜1194)を創始して、ブワイフ朝勢力を駆逐して1055年、バグダードに入城(地図資料⑤)してアッバース朝カリフからスルタン(政治・軍事を行う君主)の称号を授けられた。
以後スルタンはスンナ派イスラーム教の君主の称号となった。
セルジューク朝は同じトルコ人で奴隷身分で軍事訓練を受けたマムルークという軍人を登用してイラン、イラク、シリアに至る大帝国を築いた。またイラン人の宰相ニザーム・アルムルク(1018〜1092)はエジプトのシーア派のファーティマ朝に対して、国内の主な都市にニザーミーア学院を建てた。ここでは神学、法学の授業が行われた。
セルジューク朝はシリアに進出してイェルサレムを支配してキリスト教徒の巡礼者を迫害したこと、ビザンツ帝国の皇帝がヨーロッパのキリスト教国に救援を求めたことを理由に十字軍の遠征(1096〜1270年まで7回)が行われた。
セルジューク朝もマリク・シャー(在位1077〜1092)の死後、衰退して12世紀ごろまで地方政権に分裂した。バグダードを支配していたセルジューク朝もアラル海方面におこったホラズム(1077〜1231)に滅ぼされた(1194)。ホラズムはモンゴル帝国を建国したチンギス・ハンに攻略され(1220)、のち滅んだ。
こうしてアッバース朝は領土が縮小し、カリフの権威も衰退して地方政権が分立していった。
アッバース朝は最終的にモンゴル民族を統一したチンギス・ハンの孫フラグに滅ぼされて、ここにイル・ハン国が成立した。
(ファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝)
エジプトではシーア派の過激派はファーティマ朝(909〜1171)がカイロを首都に成立した。初めからカリフと称して(中カリフ国)、アッバース朝(東カリフ国)や後ウマイヤ朝(西カリフ国)と対立した。
その後サラディン(在位1169〜93)がファーテマ朝を滅ぼして、スンナ派のアイユーブ朝を建国した。
サラディンは十字軍が占領していたイェルサレムを回復して第3回十字軍と戦った。
サラディンの死後、領土は一族に分割されて1250年にはマムルーク朝(1250〜77)に滅ぼされた。
マムルーク朝の第5代スルタンのバイバルス(在位1260〜77)はモンゴル軍の侵入を撃退し、シリアから十字軍を駆逐するなど全盛期を築いた。
しかし小アジアからおこったオスマン朝(トルコ)に滅ぼされた(1517)
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