第1時世界大戦とアジアの民族運動

 19世紀末以来、中国は英仏などの西欧列強諸国に分割されて半植民地状態であった。

第1次世界大戦(1914~18)によってアジアを支配していた欧米列強諸国がアジア 市場から撤退してして本国に戻ると、日本はアジア市場に綿織物などを輸出し、ヨーロッパ市場に軍需品や日用品などを輸出するなど輸出超過になった。

 日本では資本主義が発達して造船業・海運業・製鉄・電力・化学などの重工業も発達した。このようにして日本は工業生産額は農業生産額を上回った。その結果、都市労働者が増加した。

中国でも民族資本が成長して紡績工場が建設された。日本でも中国でも都市労働者や青年知識人も増えた。戦後民族自決主義の原則やロシア革命の成功は知識人や労働者に大きな影響を与えた。その結果、アジア諸国では社会主義運動、労働運動、民族運動が活発となった。


 中国では大戦前の1911年から12年にかけて辛亥革命が起こった。この革命は約300年続いた

満洲民族の清朝を打倒して漢民族による中華民国を成立させた革命である。

この革命に至るまでの過程を復習してみたい。

 日清戦争(1894~95)で中国を支配していた清は日本に敗北して弱体化が暴露されると列強は中国分割に乗り出した。 



(上の地図はアカデミア 世界史 浜島書店)


 具体的には借款(国家間での資金の貸借。清は日清戦争後の賠償金の支払いのための借款に始まる。清は借款返済の保証として鉄道敷設権などの利権を提供した)を通じて清から鉄道敷設権、鉱山採掘権などを利権を獲得したり、要地の租借(清の領土の一部を条約によって借りること)勢力範囲の設定などでを行なった。


(義和団事件1900~01)

 このような列強の動きに対して中国では民衆が蜂起した義和団事件(義和団の乱)が起こった。この事件は「扶清滅洋」(清を扶けて西洋を滅ぼす)をスローガンに義和団という武術を修めた白蓮教系の宗教結社を中心にドイツなどの山東半島進出やキリスト教への反感から武装蜂起して、華北の下層労働者や流民に広がった。特にキリスト教徒と中国の民間宗教とが対立して排外運動、反帝国主義運動に発展した。

 義和団が北京に入ると清朝はこの運動を利用して各国に宣戦布告した。各国は在留外国人の保護を名目に8ヵ国(英・露・米・仏・日・墺・伊・独)が出兵して清軍と義和団が撃破した。

 その結果、北京議定書が清と8ヵ国・ベルギー・オランダ・スペインと締結された。

その内容は清は①関税・塩税を担保とする4億5000万両(7億円)の賠償金の支払い ②北京公使館に外国軍の駐留権を承認 ③中央・地方の事件の責任者の処罰 ④排外団体への加入や運動の禁止など12か条であった。


(清の上からの改革と辛亥革命へ)

 義和団事件後、清は新軍の改革(1903)、1905年科挙の廃止(科挙は6世紀末、隋に始まって以来、中国の高級官吏の登用試験であった。試験科目は四書五経など約62万字の暗記、作詩、時事問題などであった。門閥に関係なく全ての男性が受験可能であり平等な実力試験であったが

古典の暗記中心の試験は近代化した西欧諸国に遅れをとったと考えられたのである)、憲法大綱の発表(07)、国会開設の公約(08)などを改革を行なった。しかし十分な成果を得られなかった。

 そこで海外の華僑や学生などを中心に清朝の打倒を目指して革命運動が起こって、各地に革命組織が作られた。その中で興中会の指導者孫文は、ばらばらだった革命組織を結集するために1905年東京で革命同盟会を組織した。(当時の東京は日露戦争で日本が大国ロシアを破って、アジア人の留学生が増加していた)

 中国同盟会は

 ①満州民族の清の打倒、②共和国建設 などを目標として三民主義(民生の安定・民族の独立・民権の伸長)を唱えて各地で宣伝活動や武装蜂起を行なった。

 1911年5月、清朝政府は英・米・仏・独の四国から借款を受ける担保として幹線鉄道を国有化することを宣言(外国に借金するために担保として鉄道を国有化ー返金できない場合は外国に利権をうばわれる)すると、外国利権を回収しようとしていた民族資本家や地方有力者は国有化に反対し9月、四川省で暴動を引き起こした。

 これをきっかけに10月10日、暴動の鎮圧を命じられた新軍の革命派が武昌で蜂起して辛亥革命が始まった。12日までの革命軍が武昌を武力で制圧した。新軍の黎元洪(れいげんこう)は湖北省の独立を宣言し、武昌・漢陽・漢口の武漢三鎮を支配した。

 清軍は鎮圧に失敗して14省が次々と清からの独立を宣言し、1912年1月、中華民国の成立が宣言され、共和国が成立して、孫文が臨時大総統に選出された。

 清朝は北洋軍閥の袁世凱を革命鎮圧のために登用したが、野心を抱く袁は革命側と交渉してが清の皇帝の退位と共和政の維持を条件に自らが孫文に代わって臨時大総統になることを要求した。孫文は要求をのんだので袁世凱は北京で孫文に代わって臨時大総統に就任した。

 1912年2月には清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)が退位し、これによって約300年間、続いた清は滅亡した。しかし、共和政は不安定で、袁は議会の力を抑えるなどしたのでこれに反対する国民党の孫文らは蜂起した(1913年7月、第二革命)。袁はこれを鎮圧して10月、正式大総統に就任して独裁化を進め、11月には国民党を解散し、1914年には国会停止した。1915年12月には自ら帝位につくことを宣言し(帝政宣言)たので各地に反袁世凱勢力が蜂起するなど(第三革命)反発が広がったので1916年3月、帝政の中止を宣言した。そして袁世凱は失意のうちに6月に病死した。

 このような辛亥革命に失望した中国人知識人の間には、民衆の自覚にもとづいて社会改革をめざそう文学革命と言われる啓蒙運動がおこった。文学革命の中心は北京大学であった。

 陳独秀もその1人で「新青年」を刊行し儒教道徳を批判した。胡適は「新青年」誌上で口語体による白話文学を提唱して魯迅は「阿Q正伝」(貧農阿Qを主人公とし、悲惨な現実をみ極めようとしない中国民衆の意識を批判した)「狂人日記」(白話文学で中国の儒教思想を批判し、中国近代化の出発点となった)を著した。


  (上の地図は アカデミア 世界史 浜島書店 )


また北京大学ではロシア革命(1917年の三月革命と十一月革命)後、李大釗(りたいしょう)や陳独秀らがマルクス主義研究を行った。


 日本では国民の政治参加を求める大正デモクラシー運動が起こり、自由主義・民主主義的風潮がおこり、民本主義思想が拡大し、普通選挙運動、社会主義運動、労働運動などが活発になった。

 民本主義は吉野作造が提唱したデモクラシー思想で主権在君の明治憲法のもとでの政治参加を主張したもので政党内閣と普通選挙の実現を目指したものである。

 1918年8月には寺内正毅内閣のとき米騒動が起こった。ロシア革命によって成立したソヴィエト社会主義政権に干渉するためイギリス・フランスなどが出兵して、日本も大軍を派遣した。列国が撤退した後も、原敬内閣はソヴィエトが朝鮮や満州に影響を及ぼすことを防止するため駐兵したのでアメリカなどからの批判もあり、1922年10月にやっと撤兵した。日本は1918~22年のシベリア出兵で約73000人を派兵し、4年2ヶ月間で10億円の戦費と3500人の戦死・病没者を出した。

 このシベリア出兵で軍需米の大量需要が見込まれたため、米の買い占めや売り惜しみで米価が高騰したため米の安売りを求めて米騒動が起こった。

 1917年7月、富山県魚津町などの漁村で主婦たちが蜂起したのをきっかに京都、名古屋、大阪、東京など大都市を中心に全国に広まり参加者は約70万人以上であった。一部に軍隊も出動して3ヶ月かかってやっと鎮静化した。これによって寺内正毅内閣は総辞職した。

 寺内内閣の後を継いだ原敬内閣は党員で陸軍・海軍・外務大臣以外は立憲政友会の会員で組織した政党内閣を組閣した。このような流れのなかで護憲三派内閣(憲政会の加藤高明、革新倶楽部の犬養毅、政友会の髙橋是清の連立内閣)のときの1925年普通選挙法が成立した。これにより納税資格制限を撤廃され、25歳以上の男子に選挙権、30歳以上の男子に被選挙権が認められた。

しかし政府は同年、治安維持法を成立させて社会主義運動などを取り締まった。

 この法は普通選挙法成立直前に成立したもので「国体の変革、私有財産の否認を目的とする結社の禁止する法で10年以下の懲役・罰則を課した。1928年に死刑を追加した。普通選挙法成立による社会主義の拡大、日ソ国交樹立(1925)後の社会主義運動を取り締まるのが目的であった。


日本の中国進出

 

 ヨーロッパではサライェヴォ事件(1914年オーストリア皇太子がセルビアの青年に暗殺された)のをきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。

 オーストリアはセルビアに宣戦布告した。オーストリアをゲルマン民族のドイツが支援し、セルビアには同じスラヴ民族のロシアがこれを援助した。ドイツはオーストリア・イタリアと三国同盟を結んでおり、ロシアはイギリス・フランスと三国協商を結んでいたので両者の対立が第一次世界大戦となった。ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリア(イタリアはドイツと三国同盟をむすんでいたが、中立を保持し、オーストリアと対立していたので、のち連合国側についた)対ロシア・イギリスなど多数の連合国との戦争であった。

 このようにして第一次世界大戦が開始されると、日本は日英同盟(1902)を理由に1914年、ドイツに宣戦し、中国にあるドイツ領山東半島の膠州湾の青島とドイツ領南洋諸島のマリアナ諸島・マーシャル諸島・カロリン諸島、パラオ諸島を占領した。

 1915年には中華民国の袁世凱政府に対して日本は軍事力を背景に「21カ条要求」を突きつけてその大部分を承認させた。

21か条要求とは

①山東省におけるドイツ権益は日本が引き継ぐ

②大連・旅順の租借期限と南満州鉄道の利権を99ヵ年延長する。

③漢陽・大治(だいや)などの石炭や鉄の権益を獲得する。

④中華民国に日本人の政治・財政・軍事顧問を置く


などであった。中国の主権を侵害するものだったので中華民国政府は反対したが日本が軍事力を背景に大部分を承諾させた。中国民衆はこれに対して反対運動を展開した。

 欧米列強は日本の中国侵略に対して警戒したので、日本は1917年海軍の一部をヨーロッパに派遣して連合国の作戦に協力した。

 またアメリカとは1917年日本全権石井菊次郎とアメリカの国務長官ランシングがワシントンで協定を結んだ。その内容は日本は中国のアメリカの要求する中国の門戸開放を認め、アメリカは日本の満州における特殊権益を認めるというものであった(石井・ランシング協定)。

 先ほど述べてように日本では大戦の好景気で都市労働者が増加し、ロシア革命の影響もあって、労働運動や農民運動が盛んとなり、社会主義思想への関心も深まった。

 以後、先述した、シベリア出兵(1918~22)、米騒動(1917)、普通選挙法の成立(1925)

治安維持法の成立(1925)などがあった。


 (朝鮮と日本)

 日本は1910年韓国併合を行って植民地とした。そして韓国を朝鮮と改称し、漢城を京城と改め、ここに朝鮮総督府を設置して(初代総督は陸軍大臣寺内正毅が兼ねた)厳しい植民地支配を行った。憲兵や警察によって朝鮮民衆を監視・統制するなど武断政治を行なった。

 朝鮮語の新聞・雑誌の発行や結社なども制限した。一方で日本語の普及を図るなど日本人との同化政策を進めた。

 総督府は土地調査事業を行い、所有不明の土地などを官有地として接収して膨大な土地を所有することになった。この土地を日本人地主や東洋拓殖会社に払い下げて、朝鮮人の多くは彼らの小作人となった。

 1917年ロシア革命や1919年1月開催されたパリ講和会議で民族自決主義が掲げられたこともあり、朝鮮人の民族的自覚が高まり、日本から独立の動きが高まった。

 1919年3月1日、ソウルのパゴダ公園で民族代表が「独立宣言」を発表した。これをきっかけに、この集会に集まっていた学生や市民は「独立万歳」を叫んでデモを行い、それが各地に波及して約200万人の民衆が参加した。これが三・一運動(万歳事件)である。

 朝鮮総督府は軍隊を動員して厳しい弾圧を行ない、7500人の死傷者を出した。

 日本はこの反省から結果、従来の憲兵警察制度を廃止して武断政治をやめ文化政治へと転換した。


(中国と日本)

 1919年開催されたパリ講和会議に中国は代表を送って、第一次世界大戦中に日本が強要した「21か条要求」の取り消しや日本が獲得した山東半島の利権の返還を提訴したが主要国に拒否されたので、5月4日北京大学の学生を中心に北京の天安門前に集合して、抗議集会を開き、ついで外国公使館までデモ行進を行った。その後、排日、日本商品のボイコット、ヴェルサイユ条約調印反対を唱えて、デモやストライキが各地には波及した。

その結果、中国はヴェルサイユ条約の調印を拒否することになった。これを五‥四運動という。この運動は反日・反帝国主義・軍閥打倒運動へと発展していった。


(戦後の日本の国際的地位の向上)

 パリの講和会議で日本はドイツ権益(山東半島の利権)の継承を認められ、赤道以北のドイツ領南洋諸島であるマリアナ諸島・カロリン諸島・マーシャル諸島の委任統治領とした。

また日本は国際連盟の常任理事国(英・仏・伊・日)となり、国際的地位が向上した。

 しかし、日本がアジアで有力となることを警戒したアメリカ・イギリスなどは1921年から22年にかけてワシントン会議を開催した。

 ワシントン会議は第一次世界大戦後のアメリカ・イギリス・日本など建艦競争で軍備費が拡大したのでアメリカの提唱で開催された。

 この会議では太平洋地域での領土と権益の尊重を内容とする四ヵ国条約(英・日・米・仏)が結ばれ、その結果日英同盟が廃棄された。

 中国の主権、独立の尊重・領土保全・機会均等・門戸開放を内容とする九ヵ国条約(米・英・仏・日・伊・中国・ベルギー・蘭・独)により、第一次世界大戦中に日本が獲得した青島、および山東省の利権を、イギリスは租借地威海衛を中国に返還した。

 主力艦の保有率(英:米:日:仏:伊ー5:5:3:1.67:1.67)を定めた海軍軍縮条約が締結された。また10年間は主力艦の製造を行わないことを定めた。

 この会議の目的は日本の過剰な中国進出を阻止しアメリカの中国市場への参入の機会を保証しようとするものであった。