世界近・現代史入門(ソ連のスターリン時代)

(ソ連の社会主義建設)

 ソ連では1924年レーニンが死ぬと、スターリンとトロツキーの後継者争いがおこった。スターリンはロシアは後進国であるが、広大な領土を持っているので一国だけで社会主義を存続できるという一国社会主義論を唱え、トロツキーはロシアは後進国であるのでソ連単独だけでは革命は存続できないので全世界で革命を続行して社会主義勢力を拡大してのみソ連は存続できるという世界革命論を唱えて対立した。

 スターリンはトロツキーを追放して実権を握り(下の資料)、社会主義国家建設を目指して第一次五カ年計画(192832)に着手した。この計画はレーニンのネップに代わって実施されたものである。

 ネップはレーニンが対ソ干渉戦争に勝ち抜くために戦時共産主義をとって穀物の徴発などを行ったために多数の餓死者が出たので一部、資本主義的要素を認めたものである。

 具体的には中小企業経営や農民の余剰生産物の販売の自由など経済的自由を与えたもので、これによって工業も農業も生産が回復した。

 しかしネップによってネップマン(小所有階級)やクラーク(富農)が生まれて貧富の差が生まれて平等を理念とする社会主義と矛盾した。

 第一次五カ年計画は重工業中心で特に銑鉄・鉄鋼・農業機械などの生産をおこなった。そのためにウラル地方や西シベリアに工業地帯が建設され、鉄鉱などの生産力は飛躍的に増大して、ソ連は世界有数の工業国に躍進した。

 このような重工業育成のためたくさんの資金を必要としたため、国民にとって必要な消費物資の生産は少なくなり、国民は窮乏化した。

 農業部門でも機械化・集団化が推進されて社会主義化が目標とされた。

集団化には国営農場(ソフホーズ)と集団農場(コルホーズ)があったがソフホーズは革命後、大地主の土地を没収してつくられたが、あまり発展せず、農業生産は低かった。

 一方、コルホーズは農業協同組合がもとに農場の機械化も行われて発展していった。このような集団化に対して、クラーク(富農)層は反発したがやがて階級の敵として弾圧された。数百万のクラーク(富農)と言われた人々は土地を奪われ、シベリアやウラル地方などに追放された。

 このようにして社会主義国家建設が進められていった。


 農場では農民たちの生活水準を急激に低くなり、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産物しか作れなかったため農民の労働意欲は低下し、ソ連の農産物の収穫高は低下して食糧不足に陥って、ソ連の穀倉地帯であったウクライナなどでは飢饉が発生して多数の農民が餓死した。

 

 第1次世界大戦後、1929年にアメリカ合衆国のニューヨークのウォール街の株式取引場ででの株価の暴落をきっかけに世界大恐慌が起こったが、ソ連は資本主義経済諸国との交流が少なく恐慌の影響を受けずに五カ年計画に従って経済を飛躍的に発展させた。

 一方でスターリンは反対派を大量に投獄・処刑をおこなった。特に1930年代の後半には「大粛清」をおこない、下の資料にあるように餓死者を含めて8001000万人が犠牲になった。

 ヒトラーによるアウシュヴィッツなどでのユダヤ人虐殺は良く知られているがスターリンも同じことをやったということを忘れてはいけない。

 スターリンはこのようにして絶対権力を握ってスターリン体制を固めていった。

 続いて第2次五ヶ年計画(193337)が実施された。これは社会主義社会の実現と国民生活の向上をめざした。軽工業の育成、消費財を増やして資本階級の一掃をはかった。農業の集団化が完成し、国際的地位も向上して、1933年にアメリカがソ連を承認し、1934年には国際連盟にも加入が認められた。


  ( アカデミア 世界史 浜島書店)

 1935年にはコミンテルン(1919年に世界の共産党などの左翼勢力が、ロシア共産党の指導を受けてモスクワで結成した組織)も反ファシズム人民戦線を唱えて、ドイツのヒトラー台頭にともない、ファシズムに対抗する方針に転換した。

 1936年にソ連はスターリン憲法を制定して社会主義化を完成して共産党一党独裁体制を成立させた。

 この憲法の立法府は連邦会議と民族会議の二院制で議員は満18歳以上の男女の普通選挙で選出されたが民主的規定は守られず、実権は共産党が握った。

 1938年から第3次五カ年計画(193342)では軍事部門やシベリアやウラル開発に力を入れたが第2次世界大戦が始まると中止された。

 先述したようにスターリンは1936年から38年にかけて秘密警察を用いて反対派のブハーリンなど政府や軍部の幹部を逮捕、処刑して「大粛清」を行って独裁権力を握った。

 外交面では日本・ドイツなどのファシズム勢力の対抗する立場をとったのでドイツは1937年、日独伊防共協定を結んでソ連に対抗した(ファシズムの特徴は反共産主義・全体主義・基本的人権の無視・一党独裁・軍備拡張、侵略主義などである)


(第二次世界大戦とソ連)

 19393月、ドイツはドイツ民族統合を名目にオーストリアを併合し、9月にはドイツ人が多く住むチェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求した。

そこで戦争の危機を避けるためドイツのヒトラー、フランスのダラディエ、イギリスのネヴィル=チェンバレン、イタリアもムッソリーニの4国首脳によるミュンヘン会談が開かれた(ソ連とチェコスロバキアの代表は呼ばれず)

 この会議で戦争してでもズデーテン地方の獲得を主張するドイツに対して、イギリス・フランスはこれ以上の領土要求はしないという条件でヒトラーの要求を認めた(宥和政策)

 しかし、ヒトラーはこれで満足せず、チェコスロバキアを解体してドイツの支配下に置いた。

 ドイツの勢力拡大に脅威を抱いたソ連はイギリス・フランスとの軍事同盟の交渉に入ったが拒否されたので(ソ連は共産主義国であったので警戒されていた)ドイツとの戦争開始を引き延ばすため、他方ドイツはポーランド侵略に際して背後からのソ連の攻撃を避けるため、ソ連はドイツと19398月独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせた。

 ドイツなどファシズム国は反共産主義(反ソ)の立場であり、ソ連は反ファシズム(反ドイツ)の立場だったからである。

 この独ソ不可侵条約は両国の相互不可侵、中立義務などを定めたものであったが秘密議定書にポーランドをドイツとソ連で分割支配すること、フィンランド・エストニア・ラトヴィアをソ連の、リトアニア・ベッサラビアをドイツの勢力範囲とすることが決められていた。

 反ファシズムのソ連がファシズム国家ドイツと提携したのでドイツと防共協定を結んでいた日本の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇である」として総辞職した。

 1939年に91日ドイツはポーランド侵入して電撃作戦によってポーランドを4週間で降伏させた。3日にポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスはドイツに宣戦して、第2次世界大戦が勃発した。


(日本とソ連)

 1939年ナチス・ドイツの台頭するまでの日本はどういう情勢であっただろうか。

 日本は朝鮮をめぐって日清戦争(189495)で勝利をおさめ、朝鮮を支配し。さらに朝鮮と満州をめぐって日露戦争(190495)でここの地を支配した。

 中国では辛亥革命が起こって約300年続いた清が滅亡して中華民国が成立した(1912)。

 第1次世界大戦が開始されると日本はドイツ、が持っていた中国の膠州湾の青島を攻撃し、ドイツ領南洋諸島を占領した。

 大隈重信内閣は1915年中華民国の袁世凱政府に対して「対華21か条要求」を突きつけてその大部分を承認させた。戦後も中華民国の分裂(軍閥・国民党・共産党)抗争に乗じて中国に干渉していった。

 特に満州方面への侵略によって1931年に満州事変が起こり、国内では右翼や軍部が台頭していった(515事件、226事件など)。

 日本は1933年に国際連盟を脱退し、19377月には盧溝橋事件をきっかけ日中戦争が勃発した。同年11月、日独伊三国防共協定が締結された。

 先述したように19398月の独ソ不可侵条約は日本にとって晴天の霹靂(へきれき)であった。

 日本は中国からインドシナ方面に進出し19409月、フランス領インドシナ北部に進出し、19414月、日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保して7月にインドシナ南部に進駐していった。

 以後、日本は欧米の植民地が多く存在していた東南アジア(アメリカ領のフィリピン、イギリス領ビルマ、フランス領インドシナ、オランダ領インドネシアージャワなど)に侵略していったので太平洋戦争が勃発した。

 ヨーロッパでは19416月イギリス本土上陸作戦に失敗したドイツはバルカン方面でソ連と対立し、独ソ不可侵条約を無視してイタリアなどとソ連を奇襲攻撃したのでここに独ソ戦が開始された。

 ソ連はイギリスなどの連合国側に立って参戦した。

ソ連は戦争が長期化する中で最後には反攻に転じてドイツの首都であるベルリンを陥落させ、東ヨーロッパを支配下に置いた。

 アジア方面では対日参戦してモンゴルと満州と内蒙古、日本の北方領土、朝鮮半島北部を占領した。

 ソ連の対日参戦については戦争中の19452月、アメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンがクリミア半島でヤルタ会談を行い、ヤルタ協定が成立した。

 この協定ではドイツの米・英・仏・ソ連の四国による管理、ドイツ戦犯の裁判、ドイツの非武装化などが定められた。

 この秘密協定でドイツ打倒後。3か月以内のソ連の対日参戦を取り決めていた。194586日広島に原爆投下、88日のソ連の対日参戦、89日に長崎に原爆が投下された。

 ソ連は日ソ中立条約の破棄して満州・朝鮮・樺太に侵入した。その結果、在留日本人の約18万人が死亡し、シベリアなどの約60万人が抑留された。