1次世界大戦の背景と原因


帝国主義時代における列強の対立

 19世紀末から第1次世界大戦の時代にかけて欧米列強が軍備を増強してアフリカやアジアの植民地や勢力圏を拡大していった帝国主義の時代が列強の競争や対立を生み第1次世界大戦の原因のひとつとなった。帝国主義の特色とは何であろうか。


 ① 独占資本主義

 欧米列強は資本主義が高度に発展して独占資本主義段階に入り、原料の供給地や商品市場だけではなく、(金融)資本の投下先として海外に植民地を求めたために世界分割競争となった。企業や銀行が独占や合併などにより巨大化して余剰資本が蓄積され、海外への有利な投資先が求められたのである。

 

 ② 2次産業革命

 イギリスに始まった産業革命は蒸気力や石炭を動力として紡績や織布部門などの繊維工業を中心とした軽工業であったのに対して、この19世紀末には石油や電力を動力として鉄鋼業、化学工業、電気工業などの重工業が発達した。この第2次産業革命の時期には新しい資源を必要としていた。

 石油・ゴム・錫・銅・ニッケル・亜鉛・硝石などの工業用に必要な資源はヨーロッパではほとんど産出されずアフリカやアジアに求めざるを得なかった。

 そこで独占・集中によって巨大化した企業や銀行は余剰資本を海外植民地に投資して、ゴム園、油田、鉄道などの産業を経営して利益を上げた。

このためアジア、アフリカでは列強の分割競争が激化していった。


 ③ アジア・アフリカ諸国の抵抗

  帝国主義による列強の世界分割政策に対抗した例として、中国()では義和団事件(190001)が起こった。

 この事件は日清戦争で敗北して弱体化した中国の清に資金援助する代わりにイギリスやフランスなどの列強諸国が鉄道敷設権や鉱山採掘権などを獲得していった。これに対して山東省を中心に武術集団の義和拳教という白蓮教系の宗教結社がドイツの進出とキリスト教布教への反乱を起こして、華北一帯の貧農や流民に広まった。かれらはキリスト教の宣教師の殺害や教会の破壊などを行なったり、西欧諸国の資本による鉄道や電信などを破壊して、その勢いが北京に及ぶと、西欧8カ国連合軍(日・米・露・独・仏・伊・墺・英)が出兵して義和団の乱を鎮圧した。

 その結果、北京議定書が結ばれて清は賠償金45000万両の支払い、北京公使館に外国軍の駐留権などを認めた。

 また南アフリカではブール戦争(南アフリカ戦争ともいう189902)

この戦争は。イギリスは19世紀はじめ、オランダから南アフリカのケープ植民地を獲得したが、そのためオランダ人の子孫ブール人は北部にオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建国した。

 ここに金・ダイヤモンドが発見されると、イギリスはこの2国と戦い、ここを併合してケープ植民地などを合わせて南アフリカ連邦を組織した。

 このようにして列強は民族運動や独立運動を軍事力によって抑えて植民地獲得していった。


 ④ 社会主義と社会主義政党の成立

 イギリスに18世紀後半、産業革命が起こり資本主義が発達して工場が設立され、そこで働く労働者が増加した。それにともなって長時間労働、低賃金、子どもや女性の深夜労働などの労働問題が起こった。そこで労働者は労働者条件の改善や政治的権利の獲得を求める(選挙権獲得のため選挙法改正など)労働運動が起こった。彼らは団結して労働組合を結成して自らの要求の実現をはかった。イギリスの代表的な労働運動にチャーティスト運動がある。

  このような労働運動をさらに一歩進めてマルクスらの社会主義思想が生まれた。マルクスによると資本主義社会においては工場を経経営する資本家階級(ブルジョアジー)とそこで働く労働者階級(プロレタリアート)が対立している。ブルジョアジーはますます富裕となるがプロレタリアートは貧困となって貧富の差が拡大していく。大多数の労働者が平等な生きがいのある社会をつくるためにはプロレタリアートは団結して武力で革命を起こしてブルジョアジーを倒してプロレタリアート独裁による政権を獲得しなければならないとした。

 帝国主義時代になると、イギリスなどでは政党を軸に議会を通じて漸進的に社会主義の実現をはかろうとした。このころ社会主義政党が各国に成立した。イギリス労働党(1906)、フランス社会党(1905)、ロシア社会民主労働党(1903)、ドイツ社会民主党(1890)などである。

  ロシアでは第1次世界大戦中にマルクスの影響を受けたレーニンの指導によって1917年社会主義革命が起こり、世界最初の社会主義政権が成立した。


2)三国同盟と三国協商の対立

 

 19世紀のはじめのドイツは35の領邦国家(ドイツは分裂していて皇帝の支配権から独立した地方諸侯が主権を行使した地方国家のこと)4自由市が分立していた。

 その中で有力なのがプロイセンとオーストリアであった。

1848年から49年にかけてドイツの統一をめぐってフランクフルト国民議会が開催されたが、オーストリアを中心に統一を進めようとする大ドイツ主義とプロイセンを中心とする小ドイツ主義が対立してドイツの統一は成らなかった。

 そこでプロイセン王ヴィルヘルム1(在位186188)はビスマルクを首相に任命し鉄血政策(鉄は武器、血は兵士をさす)によって軍備拡張を行なった。

 鉄血政策とはビスマルクの演説「・・言論や多数決によって現下の大問題は解決されないのであります。言論や多数決は1848年及び1849年の欠陥でありました。鉄と血によってのみこそ問題は解決されるものであります」にもとづいている。

 鉄血政策の武力によるドイツ統一をめざして、プロイセンのビスマルクは1866年オーストリアと戦い(普墺戦争)勝利をおさめるとプロイセンを警戒したフランスのナポレオン3世をスペイン王継承問題を理由に1870年戦ってナポレオン3世を捕虜にしてフランス軍破った(普仏戦争)

 スペイン王位継承問題とは、プロイセンのホーエンツォレルン家につながるレオポルドをビスマルクがスペイン王にしようとしたので、フランスのナポレオン3世はスペインとプロイセンから攻撃を避けるため、エムスで休養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣してレオポルドをスペイン王にしないように迫った。ヴィルヘルムはこの事情をビスマルクに打電したがビスマルクはその電報をナポレオン3世が脅したかのように改ざんして公開した(エムス電報事件)ので両国民とも世論が沸騰して戦争となった。

 この戦争に勝利をおさめたプロイセンは1871年、フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の戴冠式を行い、ドイツ皇帝にヴィルヘルム1世が即位し、帝国宰相にビスマルクが就任した(ドイツ帝国の成立)

 敗北したフランスはドイツに復讐を唱えて軍部や右翼が台頭した。

 その例として、対ドイツ強硬派の元陸相ブーランジェは国民のドイツ復讐熱を利用して軍部独裁のクーデタを計画したが失敗したブーランジェ事件(188789)がある。

 そして、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイ容疑で終身刑となったが、のち無罪と判明したドレフュス事件(189499)があげられる。

 そこでビスマルクはフランスを国際的に孤立させるために三帝同盟(1873年独・墺・露)を結んだが、バルカンでロシアとオーストリアが対立して、事実上意味を失ったので、独墺同盟(1879)によって両国の絆を深め、81年には新三帝同盟も復活した。さらに1882年にはチュニジアでフランスと対立していたイタリアを誘って三国同盟(独・墺・伊)が成立し、1887年には独露再保障条約を成立させて「フランスの孤立」が完成した。

 しかし、次の皇帝ヴィルヘルム2世(在位18881918)が即位すると、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止し、独露再保障条約を更新しなかったことなどを理由に、ビスマルクは辞職した。そのためかれが築いたフランス孤立政策は崩壊した。

 その結果フランスはロシアに接近して露仏同盟(189193)を結んで、国際的孤立から脱した。

 ヴィルヘルム2世は「ドイツの将来は海上にあり」として新航路政策を推進して海軍力増強したためにイギリスと対立した。ドイツの3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バグダードの3都市を結び、ドイツからオスマン帝国、イラクを支配する)とイギリスの3C政策(エジプトのカイロ、南アフリカのケープタウン、インドのカルカッタの3都市を結ぶ)の対立である。

   一方、アフリカではイギリスの縦断政策(エジプトのカイロスーダンローデシアケープタウン)とフランスの横断政策(モロッコサハラ砂漠ジプチ・マダガスカル)が対立した。

 イギリスとフランスは1898年ファショダで衝突して戦争の危機となったがフランスが譲歩して事なきを得た(ファショダ事件)。そして、ドイツに対抗するため1904年英仏協商が締結された。その内容はフランスのモロッコにおける、イギリスのエジプトにおける優越権を相互に承認した。

 これに不満なドイツはモロッコのタンジール港に軍艦を派遣したが、イギリスがフランスを支持したため、ドイツのモロッコ進出は失敗に終わった(1905年第1次モロッコ事件・タンジール事件)

(アカデミア 世界史 浜島書店)


 またイギリスはロシアともバルカン、イラン、アフガニスタン、極東で対立していたので日英同盟を結んで日本に日露戦争を行なわせたが、ロシアが敗北するとドイツに対抗するため英露協商(1907)が成立した。

  こうして露仏同盟、英仏協商、英露協商から三国協商(英仏露)が成立し、ビスマルク時代に結ばれた三国同盟(独墺伊―イタリアはオーストリアと対立していたのでイギリスとの密約により協商側について参戦)が対立して第1次世界大戦の原因のひとつとなった。


 (3)バルカン半島の情勢―パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立

  

 ロシアは不凍港を求めてオスマン帝国が支配するバルカン方面から黒海、地中海方面への南下政策を行った。バルカンを支配しようとするオーストリアや地中海からエジプトを経てインドに至る航路を確保していたイギリスはロシアの南下政策に反対した。

 イスラム教国のオスマン帝国(トルコ)はバルカン地方のセルビア、ルーマニア、モンテネグロなどのバルカン諸国を支配していた。こに住んでいたスラヴ民族はロシアと同じキリスト教(ギリシア正教)徒が多かった。

 1875年オスマン帝国支配下にあるボスニア・ヘルツゴヴィナでギリシア正教徒が反乱(独立運動)を起こすとオスマン帝国は軍隊によって鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義(スラヴ民族の統一と連合をめざす運動)を唱えてギリシア正教徒の保護を名目にスラヴ民族の独立運動を支援して1877年ロシア=トルコ(露土)戦争を起こした。

 その結果、1878年サン=ステファノ条約により、セルビア・ルーマニア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治が認められてロシアはブルガリアを通じてバルカン地方を勢力下においたのでロシア南下は成功した。

 しかしオーストリアとイギリスはロシアのバルカン地方への南下に反対したので、ドイツのビスマルクは「誠実な仲介人」と称して1878年ベルリン会議を開催してロシアの南下政策を挫折させた。

 ベルリン条約でセルビア・ルーマニア・モンテネグロの独立の承認。ブルガリアは領土は縮小しオスマン帝国宗主下の自治国となり、イギリスはキプロス島の行政権を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した。

この結果、ロシアの南下政策は挫折した。

 

  (アカデミア 世界史 浜島書店)

 

 ロシアはその後、バルカン方面から満州・朝鮮方面の方向を転換して日本と対立して日露戦争がおこしたが敗北したので、バルカン半島に再び目を向けた。

 バルカン半島は15世紀以来オスマン帝国の支配下にあったが、帝国が弱体化するにつれてスラヴ系などの独立運動が盛んになった

 1908年オスマン帝国で「青年トルコ」と称するグループが専制政治の打倒、憲法の復活をめざした青年トルコ革命が起こるとこれに乗じてオーストリアはパン=ゲルマン主義を唱えるドイツに支持されてスラヴ民族のボスニア・ヘルツェゴビナを併合した(1878年のベルリン条約でオーストリアは両州の統治権を獲得していた)

 このオーストリアの併合はこの2州を合わせて「大セルビア」を建国しようとしていたセルビアと対立したこの結果、のちの1914年セルビアの青年がオーストリア皇太子夫婦を暗殺したサラエボ事件が起こり、オーストリアはドイツの支持のもとセルビアに宣戦して第一次世界大戦が勃発することになる)


 ドイツ・オーストリアのパン=ゲルマン主義に対して、ロシアはパン=スラヴ主義を唱えてバルカン同盟(セルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロ)を結成させてオスマン帝国を破り(191213年第1次バルカン戦争)、領土を拡大したが、ブルガリアの領土が多すぎるとしてセルビア・ギリシア・モンテネグロなどがブルガリアを包囲してこれを破った(1913年第2次バルカン戦争)。この結果、領土の大部分を失ったオスマン帝国と領土を縮小させられたブルガリアはドイツ・オーストリア側に接近した。

  

 このようにして三国同盟(独・墺・伊ーイタリアは三国協商側につく)・オスマン帝国・ブルガリアに対して、三国協商(露・仏・英)・セルビア・日本(日英同盟により)などが戦ったのが第一次世界大戦(191418)である。