世界近代史入門(清④義和団事件・日露戦争・韓国併合・辛亥革命)

 日清戦争(1894~95)で清は敗北して賠償金(2億両=約3億円)の支払いなどで財政難になり、清の弱体化が暴露されると、清は借款(国際間の資金融資)を受ける代わりに、鉱山採掘権・鉄道敷設権•租借権(条約によって清の領土の一部を借りて、行政・司法・立法権を掌握)を与えたので列強は勢力範囲の設定などを行い、利権を獲得して、中国分割に乗り出し中国は半植民地化された(前章の清③を参照)


(変法自強運動)

  清は日本の明治維新にならって公羊学派(清代後半の文献研究中心の考証学を批判し実際に政治に結びつく理念を重視した学派)の康有為を中心に、光緒帝(在位1875~1898)の支持のもとに議会制度を基礎とする立憲君主政の樹立をめざして改革を進めようとした。

 官吏任用試験の科挙では儒教の経典の細かい解釈を論ずる(八股文)試験を廃止して、西洋の学問を試験科目に導入したり、近代的な学校を創設するなどの改革を行った(戊戌の変法)。このような一連の近代化の改革運動を変法自強運動という。

 光緒帝は14歳で即位し、1887年まで西太后が摂政をつとめた。17歳で親政を開始し、1898年康有為を登用して変法を断行したのである。

 しかし、改革に反対する保守派は西太后と結んでクーデタを起こした。これが戊戌の政変である。その結果、光緒帝は幽閉され、康有為らは日本に亡命したので改革は失敗に終わった。

 (西太后は第9代咸豊帝の側室でその子が第10代同治帝であり、同治帝死後、甥の11代光緒帝を立てて実権をふるった)


(義和団事件ー1900~01年)

 このころ国内では列強諸国に対して排外運動から義和団事件が起こった。

 アロー戦争(1856~60)の結果、北京条約によってキリスト教の布教の自由が公認され、キリスト教が広まると中国の民間宗教と対立が深まり、反キリスト教運動である仇教運動が起こった。

 アロー戦争については前章の清③で述べたが、繰り返すと1856年広州港外に停泊中のイギリス帆船アロー号が海賊容疑で清朝の官憲によって検索され、中国人乗組員10数名が逮捕されたアロー号事件を口実にイギリスと、当時広西省でフランス人宣教師が殺害されたのを理由にフランスのナポレオン3世が連合して清と戦った戦争である。この戦争後、北京条約で貿易港が拡大し、キリスト教布教の自由が公認されたのである。

 外国に侵略に対する反乱は各地で起こったが、なかでも義和団事件は山東半島へのドイツの進出とキリスト教布教に対する反発から「義和拳」という武術を修めた白蓮教系の宗教的武術集団の「義和団」は「扶清滅洋」ー「清を扶(たす)けて西洋を滅ぼす」を唱えて、西欧列強の資本による鉄道や教会を破壊し、キリスト教宣教師や信者を襲撃した。 この反乱は河北一帯の貧農や下層労働者に拡大していった。

 この義和団の反乱が北京に及ぶと、清朝保守派は列強に宣戦布告した。これに対して8カ国連合軍は在留外国人の保護を名目に出兵した。これが義和団事件である。その結果、清は敗北して1901年北京議定書に調印した。この議定書で清は外国軍隊の北京駐留を認め、巨額の賠償金を支払った。

 義和団事件以後、ロシアは中国東北部(満州)から撤兵せず、朝鮮へも進出した。

 これに対して日本は日清戦争後の下関条約で清の朝鮮に対する宗主権の否定し、朝鮮の独立を認めさせ、朝鮮への進出を図ろうとしたのでロシアと対立した。


 さらに日本はロシアによる三国同干渉(ロシア・フランス・ドイツ)によって清から獲得した遼東半島を返還せざるをえなくなって、ロシアに対する敵意が高まり、「臥薪嘗胆」をスローガンにロシアとの戦争に備えて軍備拡張を進めていった。

 

(日露戦争)

 日本の桂太郎内閣の外相小村寿太郎らはイギリスと結んでロシアの南下に対応するため1902年日英同盟を成立させた。イギリスはロシアとバルカン半島、中央アジア、極東で対立しており、日本も朝鮮と満州でロシアと対立していたので日本とイギリスの利害が一致したのである。

 イギリスは当時、植民地をめぐって南アフリカ戦争(ブール戦争1899~1902)を行なっていたので余裕なく、日本にロシアを抑えさせようとし、アメリカもそれを支持した。

 (ブール戦争とは19世紀初めイギリスはオランダから南アフリカのケープ植民地を獲得したが、ここを追われたオランダ人の子孫ブール人は北部にオレンジ自由国、トランスヴァール共和国を建設した。ここにダイヤモンドが発見されるとイギリスは両国と戦って(ブール戦争)ここを併合して、南アフリカ連邦を形成することになった)

     (日露戦争図ー高校日本史A 実教出版) 

 


 さて、日本は日英同盟(1902)を背景にロシアに宣戦したので日露戦争(1904~05)が勃発した。1904年、2月8日、日本海軍は旅順のロシア艦隊を奇襲攻撃し、9日、陸軍は仁川に上陸して戦争が始まり、10日に日本はロシアに宣戦布告した。

 陸軍は約100万の軍隊を満州に送って、大戦を重ねたが勝敗は決しなかった。海軍の連合艦隊は旅順港を封鎖し、陸軍は3回の総攻撃で約6万人の死傷者を出すなどして旅順要塞を占領して、旅順にいたロシア艦隊を全滅させた・

 1905年3月10日、奉天会戦で日本軍は25万、ロシア軍32万が衝突して1週間の激戦の末ロシア軍を退却させた。1905年5月には陸上での不利を挽回するためにヨーロッパから回航してきたバルチック艦隊を日本の連合艦隊が日本海海戦でほぼ全滅させた。


 日本では莫大な戦費、死者を多数出すなど戦力が限界であった。軍事費は約17億円でそのうち内外債が13億円(内債6億円、外債7億円)で、外債募集には日銀の副総裁高橋是清があたった。戦死者も日清戦争では1万3000人だったのに対して日露戦争では11万8000人と激増した。

 一方、ロシアでは1905年1月22日、ペテルブルクで、日露戦争中の戦況が不利になるなか労働者を中心とする民衆が平和請願のデモ隊に軍隊が発砲して死傷者2000人以上の犠牲者をだした。これが「血の日曜日事件」である。

 この事件をきっかけに都市労働者を中心に各地で暴動が発生して6月には黒海海軍所属の戦艦ポチョムキン号の水兵が反乱を起こすとこれが軍隊の反乱に発展し、第1次ロシア革命が勃発した。

 政府は日露戦争の継続が困難として講和する一方で皇帝ニコライ2世は十月勅令を出して国会の開設と憲法の制定を約束した。

 国会(ドゥーマ)は1906年に開設され17年のロシア革命まで4回開会され、議員は制限選挙で選ばれた。

 ロシア革命が起こって社会不安が高まっていたので、アメリカのセオドア=ローズヴェルトの仲介によってポーツマス条約(1905)が締結された。日本全権は小村寿太郎、ロシア全権ヴィッテであった。条約の内容は

①日本は北緯50°以南の樺太の領有権と遼東半島南部の旅順・大連の租借権、南満州鉄道の利権を獲得。

②日本は韓国の指導・監督権をを獲得。

③日本はカムチャッカ半島と沿海州の漁業権を獲得

 

 日本では1905年9月、ポーツマス条約で賠償金が得られなかったことなどから国民の不満が高まって日比谷焼き討ち事件が起こり死者17人、検束者約2000人となった。

 日露戦争の勝利によって日本の国際的地位は高まった。戦後はロシアとの関係が改善し日露協約(1907年。アメリカの満州進出への警戒。秘密協定で日本の南満州、ロシアの北満州の勢力範囲協定など)、ロシアもドイツと対立していたイギリスと英露協商(1907年。イラン北部はロシア、イラン南東とアフガニスタンはイギリスの勢力範囲とする。チベットには相互内政不干渉とした)を結んだ。


(朝鮮の情勢と韓国併合)

 日清戦争後、日本は繊維産業を中心とする軽工業が発達して海外市場が必要としたので朝鮮へへ進出しようとした。朝鮮は清が日清戦争で敗れたのち、自主的な独立国であることを示すため高宗は1897年、朝鮮を大韓帝国と改称して自ら皇帝になった。

 1904年2月、日露戦争開戦の13日後に日韓議定書を締結し、韓国の保護を名目に日本の軍事的必要な便宜を図ることを取り決めた。

 さらに日露戦争の軍事制圧下に韓国に日本政府推薦の外交・財政顧問を置くことを内容とする第1次日韓協約(1904)を結んだ。

 そして日露戦争後のポーツマス条約の2ヶ月後1905年11月には第2次日韓協約を結ばれ、日本が韓国の外交権を接収して保護国化し、統監府を設置した。統監は外交事務を行い、行政を監督した。初代統監に伊藤博文が就任した。

 このような日本の横暴に対して、韓国の皇帝高宗は1907年に開催されていたハーグ万国平和会議に密使を送って国際世論に訴えた(ハーグ密使事件)。

 日本はこの事件を契機に第3次日韓協約(1907)を結んで韓国の内政権を掌握して韓国軍隊を解散した。

 朝鮮各地では一部の軍隊と民衆が結んで、反日義兵闘争を起こしたが日本は近代兵器や焦土作戦でこれを弾圧した。

 1909年には韓国統監を辞任して枢密院議長であった伊藤博文が日露関係の調整のため満州を訪問していたが、義兵運動家の安重根にハルビン駅で暗殺された(安は翌年3月、旅順監獄で死刑となった)。

 日本は1910年韓国を併合し、ソウルに統監府に代わって総督府を置いて憲兵による武断政治を行ない韓国を植民地とした。


 (辛亥革命)ー満州族の清朝を漢民族が倒して

一方、中国の清では義和団事件後、国内改革が実施された。1905年科挙(官吏任用試験)の廃止。これは西欧列強が近代化を進めてアジアに進出して時代に儒学古典の暗記中心の科挙に合格した官僚が政治を主導することが時代遅れになっていたからである。そして1908年、立憲制のために憲法大綱の発表と国会開設を約束した。しかし改革のための増税や中央集権的支配に対して地方の反発を招いた。

 海外では華僑や留学生を中心に漢人による清朝打倒の革命運動が各地で起こった。 興中会の指導者孫文は革命諸団体を結集して東京で1905年中国同盟会を組織した。中国同盟会は清朝の打倒、共和国の建設、三民主義(民生の安定・民権の伸長・民族の独立)を唱えて各地で武装蜂起をおこなった。

 1911年5月清朝政府が英・米・仏・独からの借款を受ける担保として民営鉄道の国有化を宣言した。

 外国からの利権を回収して民営鉄道建設を進めようとしていた民族資本家や地方有力者は国有化に反対して四川省で9月、暴動が起こった。これをきっかけに10月10日、革命勢力の強かったで武昌で軍隊が蜂起して辛亥革命が始まった。

これをきっかけに革命は全国に拡大して1ヶ月の間に大半の省が清からの独立を宣言した。12月、革命軍は臨時大総統に孫文を選出し、1912年1月1日、南京で中華民国成立を宣言した。

 清朝は軍閥の袁世凱を起用して革命の鎮圧を図ろうとしたが、袁は清の支配者になろうとする野心があったので革命側との交渉にあたった。

 袁世凱は清帝の退位と共和政の維持を条件に孫文に代わって自ら、臨時大総統になるという協定を結んだ。その結果、1912年宣統帝溥儀の退位によって清は滅亡した。これが第一革命である。

 袁世凱が臨時大総統に就任したが、共和政政権は安定せず、議会を抑えて独裁を図ろうとする袁に対して孫文らは国民党を結成して選挙で圧勝したが袁世凱は帝国主義列強の援助を受けて国民党の指導者の宋教仁を暗殺するなど弾圧していった。そこで1913年7月、国民党は武装蜂起を行った(第二革命)が武力によって鎮圧された。

 10月袁世凱は正式大総統となり、実権を握った。

このころ第一次世界大戦が行われており、日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し、この戦争を理由に中国へ進出して中国にあったドイツ領の山東省半島の青島とドイツ領南洋諸島をを占領した。

 1915年1月18日本の大隈重信内閣は中華民国の袁世凱政権に対して「対華21カ条要求」をつきつけた。この内容は山東省のドイツ権益の継承、旅順・大連の租借地と南満州鉄道の権益の99年の延長、中国政府への顧問派遣などであった。

 袁世凱がこれを受諾したので、中国国内では激しい反対運動や暴動がおこりさらに12月、袁世凱は帝政復活を宣言したので内外からの批判が起こり、国内では反袁世凱勢力が武装蜂起した(第三革命)。袁世凱は帝政取り消しを表明し、16年には病死した。

 以後、中国では各地に軍閥が分立抗争した。