イギリスのヴィクトリア時代

 19世紀の半ばイギリスではヴィクトリア時代(ヴィクトリア女王ー在位18371901)のとき繁栄期を迎えた.


(アカデミア 世界史 浜島書店)


上の資料①のドイツ皇帝ヴィルヘルム2(在位18881918)1890年、ビスマルクを辞職させ、親政を行った。対外侵略と軍備拡張を行い、イギリス・フランスと対立して第一次世界大戦を引き起こした。大戦に敗北して1918年のドイツ革命で退位してオランダに亡命した。

 

 資料②のロシア皇帝ニコライ2(在位18941917)の時代に起こった日露戦争(190405)中、ロシアの戦況が不利になるとペテルブルクで民衆による平和請願のデモに軍隊が発砲してたくさんの死傷者を出した血の日曜日事件が起こった。これをきっかけに第一次ロシア革命が起こり、皇帝は国会開設と憲法制定を約束して革命の動きをを抑えた。

 のちにロシアは第一次世界大戦に参戦したが、戦争中の19172月、ロシア革命がおこりニコライ2世は退位した(二月革命)


(ヴィクトリア時代)

 さて、イギリスのヴィクトリア女王(在位18371901)の時代にはイギリス大英帝国の黄金時代でイギリスの産業革命による経済発展が成熟したイギリスの絶頂期であった。

 この時期には自由貿易主義の立場からさまざまな改革がおこなわれた。

その一つの改革が1846年の穀物法の廃止である。

 穀物法は1815年制定されたもので、ナポレオンが没落して大陸封鎖令(ナポレオンが1806年ヨーロッパ諸国にイギリスとの通商を禁止を命じた)が解除になり、イギリスにヨーロッパ諸国の穀物の流入するのを防ぎ、地主の利益を守るために穀物に関税をかけたものであった。

しかし、これにより穀物価格は高値が続き、1830年代に入ると、折からの不作が続いて穀物価格はいっそう上昇した。

 産業革命が発展すると、産業資本家や工場労働者が増加したが、かれらは穀物価格など物価高騰に苦しんだ。そこで穀物の輸入を増やして安い穀物を供給する必要から自由貿易主義が唱えられた。

 こうしたなかで、1838年綿工業の中心地マンチェスターで商工業者や銀行家などにより反穀物法協会が形成され、39年にコブデン・ブライトらを中心に全国的組織として反穀物法同盟が成立して自由易主義の立場から1846年穀物法は廃止された。

 1851年には世界初のロンドン万国博覧会が開催され、40カ国以上の参加があった。各国の産業・技術・製品など国力の産業の成果が展示された(日本は1867年パリで開かれた万国博覧会で幕末の薩摩藩、佐賀藩が出品した)。特にイギリスの産業革命の工業力や技術力を世界に誇示する場となった。

 1867年には保守党のダービー内閣のとき第2回選挙法改正が行われて都市労働者のほとんどが選挙権を獲得し、有権者は135万人から247万人に増加した。


(グラッドストンとディズレーリ)

 (アカデミア 世界史 浜島書店)


ヴィクトリア時代は保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンの二大政党の時代であり、それぞれ重要な改革を行った。

 第1次グラッドストン自由党内閣(在任186874)の1870年に教育法が制定され、初等教育をおこなう公立学校が増設が決定された(1880年には初等教育の義務化が法制化された)

1871年には労働組合法が制定され労働組合が法的に承認された。

 1870年に第1次アイルランド土地法案が成立し、アイルランド小作人の小作権が保障された(1881年の改定で土地購入権を認め、自作農創設のための以後も改定が繰り返された)

 グラッドストンに代わった保守党のディズレーリ内閣(187480)のとき、帝国主義政策が進められた。

 1875年ディズレーリは財政危機に陥ったエジプトからスエズ運河会社の株(全体44%)を買収し、その経営に発言権を得てエジプトへの支配を強化し、さらにインドへの交通が容易になったため、インドの支配も強化されることになった。

 スエズ運河は地中海と紅海を結ぶ全長160kmの運河である。フランスの外交官レセップスが中心になって1859年着工して10年後1869年開通した。

 従来ヨーロッパからアジアへの航路はアフリカ南端の喜望峰を回るインド航路であったがスエズ運河開通によって約1km短縮することができた。

 この運河を株をディズレーリ内閣のとき買収したのである。

このようなイギリスのエジプト支配に対して、のちの1881年から82年にかけて軍人ウラービー=パシャが指導する反乱が起こった。かれは「エジプト人のためのエジプト」を唱えて蜂起したがイギリス軍に鎮圧された。イギリスはスエズ運河地帯を軍事占領して、エジプトを事実上のイギリスの保護国とした。


(イギリスのインド植民地化とベルリン会議)

イギリスのインド支配の経過について述べたい。

 イギリスは17世紀、インドのボンベイ・マドラス・カルカッタを拠点にインドに進出して、通商活動を行い、北アメリカにも植民地を形成するなど積極的に海外進出を行った。産業革命によってインド産の綿花を本国に輸入して大規模な綿工業が発展するとインドの村落社会は崩壊した。

 イギリスはインドをめぐって1757年のプラッシーの戦いでフランスを破ってインドの支配を固め、1857年に起こったイギリスに対するインド大反乱(セポイの乱)が起こると、これをを鎮圧して、翌年、ムガール帝国(インドのイスラム帝国)を滅ぼした。

 そしてディズレーリ内閣のときの1877年には英領インド帝国が成立してヴィクトリア女王がインド皇帝をかね、インドはイギリスの完全な植民地となった。

 また1878年にはベルリン会議が開催された。これはロシアの南下政策(ロシアが不凍港を求めて黒海・地中海に進出しようとする政策)に対して、イギリスとオーストリアが反対したのでドイツのビスマルクが「誠実な仲介人」としてドイツのベルリンで開催したもので、この会議によってロシアの南下政策は挫折してイギリスはキプロス島の行政権を獲得するなど大幅な権利を認められた。

 第2次グラッドストン自由党内閣(在任188085)のとき、1884年、第3回選挙法改正が行われ、農業労働者と鉱山労働者に選挙権が与えられた。 

 グラッドストンはアイルランド問題において自治法案を議会に提出するなど自由主義的改革をおこなった。


そこでアイルランド問題について詳しくみてみよう。


(アイルランド問題)

 アイルランドはイングランド西の島で5世紀に聖パトリックがカトリックのキリスト教を布教した。以後、アイルランドはカトリック教国となった。

12世紀にノルマン朝を継いだプランタジネット朝(11541399)の初代の王ヘンリ2世(在位115489)が12世紀アイルランドに侵攻した。

 (ノルマン人はフランス北部に911年ノルマンディ公国を建国し、ここのノルマンディ公ウィリアムがイギリスを征服して創始したのがノルマン朝である。その後、親戚関係にあったフランスのアンジュー伯アンリがイギリスのヘンリ2世となってプランタジネット朝を創始してノルマン朝を引き継いだ。

 このようにイギリスはフランスにも広大な領土を所有したのでフランスのパリを中心にカペー朝(938ころ~996)が成立するとイギリスと領土をめぐって争った)

 1649年にはピューリタン革命(専制政治を行っていた国王チャールズ1世を処刑して共和政を実現した革命)を指導したクロムウェルがアイルランドを征服した。クロムウェルは王党派の追討を名目に(ピューリタン革命でクロムウェルを中心とする議会派の独立派は王党派と戦い、王党派を破って革命を成し遂げた)アイルランドに遠征して土地を没収してアイランド人は小作人となり、イギリス人の不在地主による過酷な収奪に苦しんだ。

 1801年にはイギリスはアイルランドを併合して大ブリテン王国が成立した。

アイルランドはカトリック教徒が多く、1673年の官吏は国教徒に限るとした審査法によってアイルランド人は宗教的差別を受けて、官吏にはなれなかった。

 そこでオコンネルらの努力によって1828年に審査法が廃止され、1829年カトリック解放法が成立したので宗教的差別の解消への道が開かれた。

 1840年から49年にかけてアイルはランドはジャガイモの不作で大飢饉となって100万人以上のアイルランド人が餓死して、100万人以上の人がアメリカに移住した。

 先ほど述べたように第1次グラッドストン自由党内閣(186874)の時、1870年、第1次アイルランド土地法案が成立し、アイルランド人の小作権が保障された。

 第2次グラッドストン内閣(188085)のとき、1881年には第2次アイルランド土地法案が成立し、アイルランド人の土地購入権が認められた。

 またアイルランド自治法案を提出(1886年、93)提出したが否決された。そして第3次アイルランド自治法案は成立したが、第一次世界大戦がおこると、実施は延期となった。

 大戦中の1916年にアイルランドの民族的政党シン=フェイン党がイギリスからの完全独立を目指して反乱を起こした。

戦後、アイルランドは1922年アイルランド自由国が成立して自治領となったが北アイルランドはイギリスが統治した。北アイランドのアルスター地方はアイルランド人、スコットランド人の新教徒が多く、先住のカトリック教徒と対立した。

 1937年アイルランド自由国はエールと改称してイギリス連邦内の独立国となり、アイルランドはイギリス連邦を離脱した。


(ナポレオンの没落からフランス第ニ帝政へ)

 前章で述べたフランス第二帝政までのフランスの歴史の復習してみよう。


(まとめ)

ブルボン絶対王政フランス革命により国王ルイ16世の処刑後、第一共和政(1792ナポレオン1世皇帝になる(1804)・第一帝政 ナポレオン、諸国民戦争(1813)で敗北、地中海のエルバ島へ流されるブルボン朝復活・ルイ18(ルイ16世の弟)即位 ナポレオン再び皇帝となる(百日天下) → ワーテルローの戦い(1815)でナポレオン敗北。大西洋上の孤島セントヘレナの流され、ここで生涯を終える。

ブルボン家のルイ18世、再び即位 シャルル10(ルイ18世の弟)は亡命貴族の優遇、七月勅令で言論の自由の抑圧など反動政治

→1830年七月、市民の蜂起(七月革命)オルレアン家のルイ=フィリップ即位(七月王政)するが、選挙権が大地主・銀行家など大ブルジョワジーに制限 

産業資本家や労働者が選挙権を要求したが政府に弾圧されると18482月、市民の蜂起して国王ルイ=フィリップは亡命(二月革命)して臨時政府成立(第二共和政)ルイ=ナポレオン大統領に当選 → 1851年ルイ=ナポレオンはクーデタを起こし、翌年皇帝となりナポレオン3世と称す(第二帝政)


 (概説)

フランスではナポレオン1世がイギリス・プロイセン・オランダの連合軍とワーテルローの戦い(1815)で敗北してセントヘレナへ流されて生涯を終えると、ルイ18世が即位してブルボン朝を復活させた。

 ルイ18世はフランス革命のなか1791年以来、海外に亡命していたが、1813年ナポレオンが諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)でプロイセン・オーストリア・ロシアの同盟軍に敗北してエルバ島に流されるとフランス王に即位した。

しかし、ルイ18世はナポレオンはエルバ島を脱出すると再び亡命した。その後、ナポレオンは皇帝となった(百日天下)がナポレオンとワーテルローの戦いで敗北したので再び王となったのである。

 

 ルイ18世のあと、弟のシャルル10(在位182430)が即位した。貴族・聖職者を保護し、亡命貴族に補償金を与えるなど反動政治をおこない、18305月の総選挙で自由主義者が伸長した議会を解散し、選挙権を大幅に制限し言論や出版の自由を統制などを内容とした七月勅令を発布した。

 また、国内政治の不満をそらすためにアルジェリアに出兵した。アルジェリアは以後、1962年までフランスの植民地となった。

 このような国王シャルル10世の反動政治に対して1830727日に市民・労働者らが蜂起して3日間の市街戦の結果、、国王はイギリスに亡命した(七月革命)この結果、自由主義者として知られるオルレアン家(ブルボン朝のルイ14世の弟の家系)のルイ=フィリップが国王となった。これが七月王政である。しかしこの王政のもとでは選挙権は大幅に制限されて大銀行家などのブルジョワジーや地主などが実権を握った。

 産業革命の進行とともに産業資本家や労働者が参政権を求めて各地で「改革宴会」などの集会を行い、選挙権を要求すると、ギゾー内閣はこれを弾圧したので18482月、パリ市民は蜂起して、ルイ=フィリップはイギリスに亡命した。これが二月革命である。

 その結果、臨時政府が樹立されて第二共和政が成立した。この政府は資本家などのブルジョワ共和派と労働者や社会主義者を中心とする社会主義共和派が有力であった。社会主義共和派のルイ=ブランなどは労働者のため社会主義政策を実施した。国立作業場を設立して失業者を土木事業などに従事させることなどを主な業務としたが仕事がなくても給料が支払われたのでブルジョワジーや小農民の反感をかった。

男子普通選挙により1848年、4月の選挙で社会主義政策によって土地を失うことを恐れた農民など支持が得られずに社会主義者・労働者は敗北した。

国立作業場が財政負担とし廃止されると、6月労働者は蜂起したが鎮圧された(六月蜂起)。その結果ブルジョワ中心の穏健共和派の政府が成立した。

12月の大統領選挙ではナポレオン1世の甥ルイ=ナポレオンが大統領に選出された。かれは1851年にクーデタを起こして独裁権を握り、翌52年に国民投票によって皇帝となってナポレオン3世と称した。これが第二帝政である。


 ナポレオン3世はナポレオン1世の名声と労働者・農民、ブルジョワジーの対立を利用して政権を維持した。これをボナパルディズムという。

 かれはパリの改造など社会政策を実施し、フランス資本主義を確立した。

国民の人気をえるために対外侵略戦争(クリミア戦争・アロー戦争・イタリア統一戦争・インドシナ出兵・メキシコ遠征)を行った。

 そしてプロイセン王国のビスマルクに普仏戦争で敗北して退位した。

この結果第二帝政は崩壊して、第三者共和政が成立した。

 ナポレオン3世の対外侵略戦争については次回に述べる。