ピューリタン革命と名誉革命)

 ピューリタン革命と名誉革命について再び復習してみよう。

(アカディミア 世界史 浜島書店)



(アカデミア 世界史 浜島書店)


 イギリスでは国王チャールズ1世が王権神授説を唱えて議会を無視して不当な課税などを行ったので王党派と議会派が衝突して内乱となった。オリバー=クロムウェルを指導者とする議会派の軍隊は王党派の軍を破って、国王を捕らえて1649年処刑した。これをピューリタン(清教徒)革命という。イギリス国教会を奉じる国王派に対して議会派はカルヴァン派のピューリタンが多かったのでこう呼んだ。

 この結果、王政は廃止されて共和政が成立して、クロムウェルが実権を握った。しかし、その子リチャードが無能であったため、議会派の長老派はフランスに亡命していたチャールズ1世の子チャールズ2(在位166085)をイギリスに呼びもどしたので1660年王政復古となった。

 チャールズ2世は即位にあたって「ブレダ宣言」により革命関係者の責任を問わないこと、革命で没収された王党派の土地・財産については議会の決定に従うこと、信仰の自由をある程度認めることなど議会と和解してステュアート朝を復活した。

 議会は国教主義によって政治を行おうとしたが、国王チャールズ2世はフランスとの影響のもとカトリックと絶対主義を復活させて議会と対立した。そこで議会は1673年官吏は国教徒に限るした審査法や1679年不当な逮捕を禁じた人身保護法を成立させた。

 その後、チャールズ2世の弟のジェームズ2(在位168588)が即位したが、彼も専制政治を行い、カトリック主義をとろうとしたので議会はジェームズの長女メアリ(メア2世ー在位168994)とその夫オランダ総督ウィリアム(ウィリアム3-在位1689-1702)を迎えて共同統治を行なわせた。

 二人は議会の提出した「権利の宣言」を承認して「権利の章典」として発布した。これが名誉革命である。

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権利の章典は「国王は議会の同意なくして法の執行や不当な課税をしないこと、常備軍の徴集はしないこと」などを内容としていた。

 その後、メアリの妹アン女王(在位170214)が即位した。アン女王のときアイルランドがイングランドに併合されてスコットランドとともに1801年大ブリテン王国が成立した。この結果、アイルランド問題が起こってくる。

 アン女王には子どもがなかったのでステュアート王朝は断絶して、ステュアート朝の創始者ジェームズ1世の娘が嫁いでいたドイツのハノーヴァー選帝侯と縁戚関係があったことから、ハノーヴァー家のジョージ1世がイギリス王となってハノーヴァー王朝(17141917)が成立した。かれはドイツ人であり英語を話せなかったので、首相ウォルポールのもとで内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立して「国王は君臨すれども統治せず」とよばれたように国王の権利が制限されて、議会政治が確立していった。


(イギリスの自由主義的改革)

 イギリスでは以下に述べるような自由主義的改革が実施された。

①審査法の廃止とカトリック教徒解放法

 先ほど述べた1801年の大ブリテン王国の成立でアイルランド問題が起こった。アイルランドはイングランドに西にある島でカトリック教徒が多く、12世紀にイギリスの侵攻を受け、1649年にはクロムウェルが征服し、事実上の植民地となって宗教・政治・土地問題などで差別を受けていた。

 そこでアイルランドのオコンネルらの努力によって官吏は国教徒に限るとした審査法が1828年廃止され、カトリック以外の非国教徒も公職につけることになった。カトリック教徒についても29年カトリック解放法が成立してカトリックの多いアイルランド人も公職につけるようになった。しかし、土地問題や自治問題が依然と続いた。

 アイルランド人は大部分が小作人となり、生産性の悪い自然条件とイギリス人の不在地主の収奪で苦しんだ。

 1840年代ジャガイモの大飢饉が起こり、100万人以上が餓死し、100万人以上がアメリカに移民した。アイルランド人の努力により19世紀末から20世紀初めに土地法案や自治法案が成立して1922年にアイルランド自由国が成立して自治領となりエールと称した。1937年にイギリス連邦内の独立国となり、1949年にはイギリス連邦を離脱した。

 

②選挙法改正

 18世紀後半にイギリス起こった産業革命によって工場を経営する産業資本家や工場労働者が増大した。

 しかし、大地主や大商人による支配が強かったので資本家や労働者の不満が高まった。1830年にフランスで七月革命が起こると、その影響を受けて1832年に第1回選挙法改正がおこなわれた。

 これによって腐敗選挙区が廃止され、産業資本家に選挙権が与えられた。

腐敗選挙区とは産業革命によって農村から工場のある都市へ人口が移動したため従来の選挙区が役にたたなかっため(腐敗選挙区という)廃止されたのである。

 またこの改正によって産業資本家には選挙権が与えられたが労働者には選挙権がなかったので彼らは男子普通選挙など6か条の人民憲章(People'Charter)を掲げてチャーティスト(Chartist)運動を展開した。以後1867年の第2回選挙法改正で都市の労働者に、1884 年の第3回選挙法改正で農業労働者・鉱山労働者に選挙権が与えられた。


③穀物法の廃止

 ナポレオンが没落して大陸封鎖令(ナポレオンがヨーロッパ諸国に対してイギリスとの通商を禁じた)が解除になり、イギリスに安価な穀物が流入するのを防ぎ、地主の利益を守るために1815年穀物法が成立した。これは穀物価格が下がらないように関税をかけて輸入を制限するものであった。

 しかし、安い穀物を求める労働者たちに不満であった。工業都市のマンチェスターでブライト・コブデンらは反穀物同盟を結成して自由貿易運動を進めた結果、1846年に穀物法が廃止された。


④航海法の廃止。東インド会社の貿易独占権の廃止

 航海法はピューリタン革命後クロムウェルの共和政の時の1651年制定されたもので貿易の際、商品の輸送はイギリスの船と相手国の船に限るとしたもので中継貿易を行なっていたオランダに打撃を与えてオランダとの戦争の原因になった(第一次英蘭戦争)。これは一部の海運業者の利益を与えるもので自由貿易に反しているとして1846年廃止された。

 東インド会社はインドや中国との貿易独占していたが産業革命の進行とともに自由貿易の要求が高まるにつれて1834年には東インド会社の商業活動の全面禁止、対中国貿易独占権が廃止された。


 このような自由貿易主義(自由放任主義)はアダム=スミスは著書「諸国民の富」で自由放任こそ国の富を増す政策である説いた。

 これは経済活動において国家の干渉を批判して個人の経済的自由を重んじる思想である。産業革命を最初に成し遂げて「世界の工場」となったイギリスにとっては自由貿易主義がイギリス繁栄の政策であったのである。


(二月革命の影響)


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 (アカディア 世界史 浜島書店)


(二月革命とその影響)

 フランスではナポレオン没落後、国王ルイ18世、続いて国王シャルル10(在位182430)が即位してブルボン朝が復活した。シャルルは貴族や聖職者を重んじ、亡命貴族に多額の補償金を与えたり国民軍を解散するなど反動政治をおこなったのでオレルアン家(ルイ14世の弟フィリップがオルレアン公になったことで公爵家となった)から自由主義者であったルイ=フィリップ(在位183048)が即位した。これが七月革命である。

 この七月王政は制限制限選挙のよる立憲王政で大資本家や銀行家などが優遇され、中小資本家や労働者に参政権がなかったので、かれらは不満であった。

 当時の選挙制のもとではフランスの総人口の1%以下の銀行家・大商人・大地主が選挙権を独占した制限選挙であった。

 産業革命がフランスに波及して中小資本家や労働者は普通選挙など選挙法改正を要求して全国で「改革宴会」とよばれる集会を行なっていた。やがて急進的な共和主義者や社会主義者が台頭して18482月選挙法改正の要求が拒否されるとパリ市民は蜂起したので国王ルイ=フィリップは亡命した。これが二月革命である。 

 二月革命によって共和政成立し、臨時政府が樹立された(第二共和政)。

 この政府ではラマルチーヌらに代表される産業資本家を中心とするブルジョワ共和派とルイ=ブランなど労働者や社会主義者を中心とする社会主義共和派が有力であった。ルイ=ブランらは普通選挙権の採用、言論・出版の自由などを決定し、労働者のために国立作業場を設置した。これは失業者を救済するために設置された機関で失業者を土木作業などに従事させることをおもな内容としたが、仕事がなくても日給が支払われ、ブルジョワや農民の反感をかった。

 男子普通選挙に基づいて4月に総選挙が実施されたが、社会主義政策によって土地を失うことをおそれた農民が労働者や社会主義者を支持しなかったので労働者や社会主義者は敗北して産業資本家などの有産市民であるブルジョワ共和派の政府が成立した。

 この政府が国立作業場を廃止したため労働者・社会主義者らは反発して、6月、武装蜂起した(六月蜂起)が政府軍に鎮圧された。

 184812月に行われた大統領選挙でナポレオン1世の甥のルイ=ナポレオン(在任184852)が当選した。

 ナポレオン1世の名声を利用して農民と軍隊に支持されたのである。1851年にはクーデタを起こして独裁権を握り、翌52年国民投票によって皇帝となりナポレオン3世と称した(第二帝政)。


(二月革命の影響)

 二月革命によって自由主義・国民主義運動が起こり労働者が政治に登場して社会主義運動が各地で起こった。そのためヨーロッパを支配していた保守反動的なウィーン体制は崩壊した。これを「諸国民の春」という。


①ドイツ・オーストリアの三月革命

 オーストリアに首都ウィーンで18483月、市民や労働者が自由と憲法を求めて蜂起した。その結果ウィーン体制の指導者メッテルニヒは失脚してウィーン体制は崩壊した。

 4月に皇帝は憲法制定議会の開催を認め、自由主義的改革を約束したがフランスで労働者の6月蜂起が失敗すると、ウィーンの市民の蜂起も弾圧された。

 オーストリアの支配下にあったハンガリーでは3月、オーストリアに憲法改正を認めさせ内閣が成立し、494月蔵相コッシュートはハンガリーの独立を宣言したが、8月ロシア軍の援助を受けたオーストリア軍によって鎮圧された。

 ベーメン(ボヘミア)では18486月、プラハを中心にチェック人がオーストリアからの独立を求めて蜂起して憲法制定議会の開設と自治権を獲得したが

オーストリア軍に鎮圧された。

 1848年プロイセンの首都ベルリンで民衆が蜂起して軍隊と衝突した。国王は憲法制定を約束し、自由主義的内閣が成立した。

 48年にはドイツの統一をめぐってフランクフルト国民議会が開催されたが、プロイセンを中心に統一を図ろうとする小ドイツ主義とオーストリアを中心に統一を進めようとする大ドイツ主義が対立した。493月にドイツ帝国憲法が制定され、小ドイツ主義の立場が採択されてフリードリヒ=ウィルヘルム4世が国王に就任することが決まったが、かれは拒否して、議会は武力によって解散させられた。


②イタリアの統一運動

 北イタリアのロンバルディア・ヴェネツイアはウィーン会議でオーストリアが支配していたが、これに対して抵抗運動が起こった。

サルデーニャ王国のカルロ=アルベルトが1848年北イタリアの統一運動を起こしてオーストリア軍と戦ったが敗北した。

青年イタリアのマッツィーニは49年ローマで蜂起してローマ共和国を権国したがローマ教皇と結んだフランス軍に鎮圧されて、共和国は崩壊した。


③ポーランド独立運動

 ロシアに支配されていたポーランドのクラクフで1846年独立運動が起こったがロシア・プロイセン・オーストリア軍に鎮圧された。

48年にはポズナニ・ワルシャワで反乱が起こったがロシア軍に鎮圧された。