世界近代史入門(ウィーン体制・ラテンアメリ諸国の独立と七月革命)
(ウィーン会議)
フランス革命はアンシャン=レジーム(旧制度)を打破して第一・第二身分の聖職者・貴族に対して第三身分の平民が自由・平等の権利を獲得した革命であった。
フランス周辺のオーストリア・プロイセンなどの専制君主(絶対主義)国は自国に革命が及ぶことを恐れてフランス革命を抑圧するために対仏同盟を結んでフランスに侵入したので革命の子、ナポレオンはこれらのヨーロッパ諸国と戦った。
フランス革命とナポレオン戦争の中で、フランス革命の産物である自由や平等を基本とした近代的改革はヨーロッパ諸国に伝わり、ヨーロッパの絶対主義体制を動揺させた。
ナポレオンはこれらの諸国との戦いに勝利を収めて、ヨーロッパ諸国の絶対主義君主に支配された人民の解放者として自由と平等を広めた。
しかし、皇帝となって独裁化してヨーロッパ諸国を征服・支配したことからヨーロッパ諸国との間でナポレオン戦争が起こった。
その結果、ナポレオンは敗北して地中海のエルバ島に流された。
フランスではナポレオンの退位後、革命で処刑されたブルボン朝ルイ16世の弟、ルイ18世が即位した。
(アカデミア 世界史 浜島書店)
1814年9月から15年6月にかけてオスマン帝国を除く全ヨーロッパの君主が集まってウィーン会議が開催された。オーストリア・イギリス・ロシア・プロイセンを中心として、司会はオーストリアのメッテルニヒが担当した。
会議の目的はフランス革命とナポレオン戦争後の国際秩序を再建することであり、その基本方針はフランスの国王ルイ18世の外相タレーランが唱えた正統主義とヨーロッパ各国の勢力均衡であった。
正統主義はフランス革命以前の主権と領土を回復することが正統であるとして、フランスでのブルボン朝の復活や革命によって土地や財産を失った各国の聖職者や貴族の特権を取り戻すことであった。
もう一つの勢力均衡はナポレオン帝国のような一国の強い国が他国を支配しないように各国がバランス良く力を保つようにする事で、イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアの勢力均衡を保つことであった。
会議では領土問題で諸国間の利害が衝突して舞踏会や宴会が多い割に審議が進まなかったなので「会議は踊る、されど進まず」と風刺されたように正式な総会議は一度も開催されなかった。
しかしナポレオンがエルバ島を脱出したという知らせが入ると各国の妥協が成立した。
その結果、1815年6月にウィーン議定書が調印された。フランス・スペイン・ナポリにブルボン朝が復活して領土変更が行われた。
①フィンランド・ベッサラビアはロシア領となる。
②ワルシャワ大公国の大部分にポーランド立憲王国を形成し、ロシア皇帝がその国王を兼ねた。
③イギリスはセイロン島(スリランカ)、ケープ植民地をオランダから獲得し、戦時中獲得したマルタ島を領有した。
④オランダが立憲王国となり、オーストリア領ネーデルラント(のちのベルギー)を獲得。
⑤オーストリアは北イタリアのヴェネツィア・ロンバルディアを獲得
⑥プロイセンはザクセンの一部とライン左岸を獲得
⑦ドイツは35邦4自由市のドイツ連邦が成立(ナポレオンが形成したライン同盟は解散)
⑧スイスは永世中立国となった。
⑨ローマ教皇領が復活し、サルデーニャはサヴォイアとジェノヴァを獲得する。
⑩スウェーデンはフィインランドをロシアに、西ポンメルンをプロイセンに割譲し、代わりにノルウェーを獲得した。
(エルバ島を脱出して再びパリへ行き亡命したルイ18世のあとを皇帝となったのでイギリス・プロイセンなどは連合軍はワーテルローの戦いでナポレオン軍を破ったのでナポレオンは退位して大西洋上の孤島セントヘレナに流されてここで生涯を終えた)
ウィーン体制とはこのようなウィーン会議によってもたらされた19世紀前半のヨーロッパの国際的反動体制であり、フランス革命以前の状態を復活させ、大国に勢力均衡をはかった体制である。
各国は神聖同盟・四国同盟を中心に各国の自由主義・国民主義運動を弾圧した。
神聖同盟は1815年9月、ナポレオンのロシア遠征軍を破ったロシア皇帝アルクサンドル1世がウィーン会議で提唱したものでキリスト教の正義と友愛の精神にもとづいて平和維持のために連帯すべきだとして、イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの君主参加してウィーン体制を補強した。
四国同盟は1815年11月、イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリア間に成立し、フランスは革命とナポレオン戦争を引き起こした当該国だったので遅れて18年加盟が認められて五国同盟となった(イギリスは22年脱退し、メッテルニヒと対立して、自由主義外交の方針に転換した)
このようなウィーン体制の反動主義は1848年のフランス二月革命などを中心とするヨーロッパ諸国の諸革命によって崩壊することになる。
(ウィーン体制の動揺)
フランス革命とナポレオンの支配のもとでナショナリズム(国民主義)と自由主義に目覚めた人々はウィーン体制の反動主義に対して反抗運動を行なった。
①ドイツでブルシェンシャフト(学生組合)運動ードイツの自由と統一を求めてイエナ大学で結成された組合(ブルシェンシャフト)が中心となり、
1817年10月、ルターの宗教改革300年を記念してヴァルトブルクの森で決起集会が開催されたが19年言論統制など自由主義・国民主義を弾圧するために開催された連邦議会のカールスバートの決議でメッテルニヒに弾圧された。
②イタリアで秘密結社カルボナリ党の乱が起こった。これは南イタリアで結成された秘密結社カルボナリがイタリアの独立と統一、自由主義的改革を目的に結成され、1820ナポリ、21年ピエモンテで革命運動を指導したがオーストリア軍に弾圧された。さらに30〜31 年の蜂起したが失敗に終わった。
③ロシアでデカブリストの乱(1825)ー12月、ロシアの青年将校たちはナポレオン戦争に従軍して西欧の自由主義の空気を吸って自国の後進性を痛感し、憲法制定や農奴制、ツアーリズム(皇帝による専制政治)の廃止を要求して反乱を起こしたが皇帝ニコライ1世に鎮圧された。
(ラテンアメリカ諸国の独立)
(アカデミア 世界史 浜島書店)
ラテンアメリカ諸国の多くは貧富の差が大きく、多民族国家であった。
18世紀後半のスペイン統治下の社会構造を見ると、支配層は本国から派遣されたペニンスラールと植民地生まれの白人であるクリオーリョが320万人、被支配階級として白人とインディオの混血であるメスティーソ、インディオ(先住民)、ムラート(白人と黒人の混血)など1400万人で彼らは重税を課せられていた。
ここではモノカルチャーよばれるコーヒーなどを単一栽培などするプランテーションがクリオーリョなどの大地主によって経営されていたが大多数の人たちは貧困であった。
このような時期にフランス革命が起こり、人間の自由と平等の観念が広まり、ナポレオンが本国のスペインを支配すると、スペインの植民地であったラテンアメリカの諸国の独立運動が盛んになった。
まず、1804年フランス革命の影響のもと、ハイチがトゥサン=ルヴェルチュールの指導のもとナポレオン軍と戦い、フランスから独立して黒人共和国となった。
1810年代には南アメリカ北部でシモン=ボリバルが、ボリビア・ベネズエラ・コロンビアなどの独立運動を指導し、南部ではサン=マルティンがアルゼンチン・チリ・ペルーなどの独立運動を指導した。メキシコではイダルゴが蜂起して独立した。
独立運動は植民地生まれの白人クリオーリョが指導して、独立後は彼らが大地主として人民を支配した。
ブラジルはポルトガルの王子が帝位について独立帝国(のち共和国)となった。このようなラテンアメリカ諸国の独立運動に対してウィーン体制は弾圧を加えた。
アメリカ大統領モンローは1823年モンロー宣言を発した。これはヨーロッパ諸国がラテンアメリカ諸国の独立に干渉することを排除し、ロシアのアラスから太平洋岸への南下政策に反対したものでヨーロッパ諸国とアメリカの相互不干渉を唱えたものである。
イギリス外相カニングも自由主義的外交に転換するなど経済的利益を優先して、ラテンアメリカ諸国を商品の市場にするため独立を承認し援助した。
そのためウィーン体制の指導者であるオーストリアのメッテルニヒはラテンアメリカの独立運動に干渉できなかった。
ギリシアでは1821年オスマン帝国に対して独立戦争(1821〜29)が起こった。東地中海への進出をめざすイギリス・フランス・ロシアはギリシアを援助したので1829年独立を達成して30年にロンドン会議で国際的に独立が承認された。
西欧諸国ではギリシアは文化の故郷であったので、イギリスの詩人バイロンは義勇軍を率いてギリシアを援助し、フランスの画家ドラクロワはオスマン帝国軍によるシオ(キオス島)での虐殺を描いた「シオの虐殺」は世論を独立へと導いた。
(フランス七月革命)
フランスではナポレオンの「百日天下」後、ブルボン家のルイ18世が再び即位してが、その後、弟のシャルル10世(在位1824〜30)が即位し、制限選挙による立憲君主制のもとで貴族や聖職者を保護し、亡命貴族に多額の補償金を与えた。また、1830年には国民の不満を外にそらすためにアルジェリアに出兵したり、議会を解散するなど反動政治をおこなった。
このため1830年7月、自由主義者であったオレレアン家(ブルボン家のルイ14世の弟の家系)のルイ=フィリップが王に迎えられてシャルルは追放された。これが七月革命である。
ルイ・フィリップは王権神授説を放棄して「フランス国民の王」と称したが、この七月王政は制限選挙に基づく立憲君主政で少数の銀行家や大ブルジョワジーの利益を中心とした政治であった。イギリスで始まった産業革命の影響がフランスに波及すると中小産業資本家や労働者はこの七月王政に不満を持ち、選挙権を求めて運動を行った。これに対してギゾー内閣は自由を弾圧したので、1848年には二月革命が勃発してウィーン体制が崩壊することになる(二月革命についは次回)
(七月革命の影響)
①ベルギーの独立
ベルギーはウィーン会議でオランダに併合されていたが、フランス七月革命の影響でブリュッセルで武装蜂起があり、オランダから独立して立憲王国となり、レオポルド1世が即位した。
②ポーランドの反乱
1830〜31年にかけてロシアの支配下にあったポーランドの士族ら反乱を起こしたが鎮圧された。30年の11月にワルシャワに起こったポーランドの反乱は31年ロシア皇帝ニコライ1世の軍隊に鎮圧された。この知らせを滞在先で聞いたポーランド人のロマン派音楽家ショパンは強い怒りを抱き、「エチュード(革命)」を作曲した。
③ドイツの反乱
ザクセンやヘッセンなど各地で反乱が起こり、憲法が制定され、1834年には経済的統一を図るためにドイツ関税同盟が結成された
④イタリアの反乱
カルボナリがイタリア中部で反乱を起こしたが失敗し、そのメンバーであったマッツィーニが亡命先のマルセイユで「青年イタリア」を結成した。
⑤イギリスでは1832年第1回選挙法改正が実現した。イギリスでは18世紀後半に産業革命が起こって「世界の工場」としてのイギリスの国際的地位は高まった。しかし、選挙権は大地主や大商人に限られて産業資本家などは不満であった。そこで選挙法改正によって産業資本家層に選挙権が与えられた。