(ヨーロッパ諸国のアジア進出)
地理上の発見についてはすでに述べたが、もう一度振り返ってみよう。
ヨーロッパ人がアジアへの関心を深めた理由はヨーロッパには産しない胡椒などの香辛料を獲得することが目的であった。肉食を好むヨーロッパ人は肉の味付けと保存のために香辛料は欠かすことはできなかった。香辛料は銀と同等かそれ以上の価値があったのである。
11世紀に始まった十字軍の遠征以来、ヨーロッパと東方世界の接触が活発になった。十字軍遠征の原因はキリスト教の聖地イェルサレムをイスラム教徒の手から奪回することであったが、このことによってヨーロッパ人が東方へ向かい、イタリアの商人たちによって香辛料や絹織物などのアジアの商品は地中海東岸に運ばれヨーロッパにもたらされた。これを東方貿易(地中海貿易)という。しかし、地中海東岸から小アジアにかけてイスラム教国のオスマン帝国が進出すると香辛料の価格が上がったのでヨーロッパ人はアジアに直接行き、より安く大量の香辛料を獲得するために新航路を開拓しようとした。
当時、ヨーロッパではルネサンスと宗教改革が行われて近代化への目覚めの時期であった。
ルネサンス期には羅針盤が発明されて航海が容易になったこと、地理学・天文学の研究、トスカネリの地球球体説が説かれた時期である。文化面では中世の封建的束縛から人間性を回復するためにギリシア・ローマの古典文化の研究が行われ、文学・芸術面でヒューマニズの精神が表現された。
宗教改革はカトリック腐敗・堕落に対してルターやカルヴァンの新教(プロテスタント)が生まれてくるとカトリック(旧教)派は勢力挽回のためにイエズス会を中心にアジアへの布教活動に乗り出してくるのである。
日本にキリスト教を布教したフランシスコ=ザビエルや中国の明を訪れたマティオ=リッチなどの宣教師がその代表である。
またモンゴル高原ではチンギス=ハンがモンゴル民族を統一したが、かれの孫のフビライ=ハンが中国に「元」を建国すると、イタリア人のマルコ=ポーロがここを訪れてフビライに仕えて「世界の記述(東方見聞録)」を著した。その中でジパング(日本)について「日本には金が溢れていて・・・宮殿には屋根が全て純金で覆われている。・・・ 床も約4センチの厚みのある金の板が敷き詰められている」などと日本を黄金の国だと記してヨーロッパ人のアジアへの関心を惹きつけたのである。
参考までに「元」と日本との関係を言えば「元寇」がある。鎌倉時代の執権北条時宗の時代の1271年(文永の役)1281年(弘安の役)の2度にわたって遠征してきたことで知られている。
以上のべたような理由によって新航路の開拓が行われた。
(ポルトガルの活動)
新航路の開拓事業はイベリア半島のレコンキスタ運動(キリスト教徒によるイスラム教徒からの国土回復運動。当時イベリア半島はイスラム教徒に支配されていた。)によって国王による中央集権化を達成したスペインとポルトガルによって行われた。
ポルトガルは15世紀初めからアフリカ西岸を探検事業を行っていたが、国王ジョアン1世(在位1385~1433)の子、エンリケ航海王子はこの事業をさらに進めインド航路開拓を奨励して、天文台や航海センターを設立してヴェルデ岬まで到達した。
ついで国王ジョアン2世(在位1481~95)の命でバルトロメウ=ディアスは1488年にアフリカ南端の喜望峰に到達した。ディアスはここを「嵐の岬」と名づけたがこれでは近寄り難いので国王は「喜望峰」と改名した。
ヴァスコ=ダ=ガマは国王マヌエル1世(在位1495~1521)の命で1497年7月3隻の船168人乗組員でリスボン出港して喜望峰を回って、アフリカ東岸のマリンディに立ち寄り、インド洋を渡って1498年5月インド西岸のカリカットに到達した。かれはイスラム商船から香辛料を奪って1499年9月帰国した。乗組員の大部分と船1隻を失ったが、香辛料が高く売れて莫大な利益をあげることができた。
ポルトガルはこのようにして地中海を経ないで直接インドに到達するインド航路を開拓したことによって通商の利益をあげた
ポルトガルは以後、インドのゴアを占領して(1510)ここを拠点にアジアの香辛料を独占した。さらにスリランカ・マラッカ・モルッカ諸島を支配して、広州で中国の明と通商をひらき(1517)、マカオに居住権を獲得して(1557)、中国の明と貿易をおこなった。
1543年にはポルトガル人の船が種子島に漂着して彼らによって日本に鉄砲が伝えられた。そしてかれらは1550年には長崎の平戸に来航して17世紀まで日本と通商関係を結んだ。
しかしポルトガルの貿易は王室が独占していたので国内産業の発展につながらなかった。
(スペインの活動)
スペインでは女王イサベルの援助のもとコロンブスは1492年8月3隻120人でパロス港を出航した。コロンブスはトスカネリの地球球体説を信じて西回りの航路を使って大西洋からインドをめざした。その結果、いまの西インド諸島のサンサルバドル諸島に到達した。かれはその後、パナマ沿岸などを3回探検したが(全部で4回探検)ここをインドの一部と信じたので先住民をインディアン(インディオ)とよんだ。しかしかれはここで金銀も胡椒も発見できず植民地経営にも失敗して晩年は不遇であった。
コロンブスの発見に伴い1494年にトリデシリャス条約が結ばれ、新大陸(アメリカ)をスペインが、アジア方面をポルトガルが分割した。しかし、スペインはアジアにフィリピン、ポルトガルは新大陸にブラジルを領有した。
また、アメリゴ=ヴェスプッチが南アメリカを探検してここはインドではない新大陸であることを明らかにしたので、かれの名にちなんで新大陸は『アメリカ』と命名された。
スペインは西インド諸島で獲得した土地を支配して現在のハイチ・ドミニカのエスパニョーラやキューバでは先住民のインディオを使用して砂糖などのプランテーション経営をおこなった。過酷な労働やヨーロッパ人がもたらした疫病でインディオ人口が激減するとアフリカから黒人を連れてきて奴隷として労働させた。
またマゼランはスペイン王カルロス1世の援助で香辛料の産地モルッカ諸島をめざして1519年8月5隻250人(280人とも)でセビリャを出航して大西洋から南アメリカ東岸を南下して3隻の船でマゼラン海峡ををへて太平洋にでてフイリピンに到達したがマクタン島で先住民の首長ラプラプ王と戦い、戦死した。1隻の船でかれの部下18名がインド洋から喜望峰を回って1522年スペインに帰国して世界周航が達成された。これによって地球が球体であることが実証さた。
その後、スペイン人のコルテスは軍隊を率いて1521年メキシコのアステカ帝国を滅ぼし、ピサロは33年にペルーのインカ帝国を滅ぼした。
この結果、スペインはアステカ帝国やインカ帝国から略奪した金・銀を本国に運んだ。またボリビア高地のポトシでは、インディオの強制労働によって銀を大量に採掘させてヨーロッパにもたらしたので銀価が下落して物価が上昇した。通貨としての安い銀がヨーロッパの物価を高騰させたのである。これを価格革命という。
一方で南ドイツの銀山を経営していたアウグスブルクのフッガー家が衰退した。
またスペイン国王はアメリカ植民地でエンコミエンダ制を実施した。これは植民者に対して先住民をキリスト教化させる条件で征服地の土地や住民の統治を委託させた制度で先住民のインディオは西インド諸島のプランテーションやメキシコやアンデス地方の鉱山などで強制労働させられた。このような強制労働やヨーロッパ人がもたらした疫病の流行でインディオの人口が激減するとアフリカから黒人奴隷が輸入された。ドミニコ派修道士ラス=カサスはこのようなインディオの悲惨な状況をスペイン国王に報告してインディオの奴隷化防止のためエンコミエンダ制の廃止を訴えた。
また、いままで地中海貿易で繁栄していたイタリア諸都市が衰退して大西洋岸のイベリア半島の諸都市が繁栄した。これを商業革命という。
(オランダの活動)
現在のオランダ・ベルギーを中心とするネーデルラント地方は中世以降、毛織物工業や中継貿易で繁榮した。ここは16世紀スペイン領となった。ここにカリヴァン派が広まるとスペイン王フェリッペ2世はカトリックを強制して重税を課したので、ネーデルラント(オランダ)独立戦争が起こった。その結果、南部10州は脱落したが1581年北部7州が独立を宣言した。これがネーデルラント連邦共和国(オランダ)である。オランダのアムステルダムは国際商業の中心地として繁栄した。
オランダは1602年東インド会社を設立してアジアに進出して、ジャワのバタヴィアを根拠地として香料貿易に従事した。オランダはさらに1623年アンボイナ事件(モルッカ諸島のアンボイナ島は1607年オランダがポルトガルから奪ったが、ここにイギリス東インド会社も商館を設置してたため両国人は対立した。この時、オランダ人によってイギリス人・東南アジアに来ていた日本人が虐殺された事件)後、モルッカ諸島からイギリス勢力が一掃された。
このようにしてオランダ時はジャワ島を中心にオランダ領東インドの基礎をかためた。また台湾を占領し1624年ゼーランディア城を築いて台湾統治の中心とした。そしてアジアへの中継地として1652年アフリカ南部にケープ植民地を設立して、鎖国中の江戸時代の日本とも貿易を行った。
(イギリスの活動)
アンボイナ事件後、イギリスはインド経営に力を注ぎボンベイ・マドラス・カルカッタを拠点として貿易をおこなった。オランダとは3回の英蘭(イギリス・オランダ)戦争を行い、17世紀末には世界貿易を支配した。
イギリスではやがてインドに綿花を栽培させてこれ本国にを輸入して綿工業を発達させてヨーロッパで初めて産業革命が起こった。
イギリスのライバルはフランスであった。フランスはアンリ4世の時設立した東インド会社を1664年再建し、国王ルイ14世の財務総監コルベールのもとインドに進出してシャンデルナゴル・ポンディシェリを根拠地としてイギリスと対抗した。
当時のインドはイスラム教国のムガル帝国が成立していたが帝国にヒンドゥー教徒とイスラム教徒の内紛がおこるとイギリスとフランスがインドの支配をめぐって戦い、最終的に1757年のプラッシーの戦いでイギリスはフランスを破ってインド統治を進めて1877年にヴィクトリア女王の時、インドを完全に植民地化した。
敗北したフランスはベトナム・タイ・カンボジアなどのインドシナに進出して仏領インドシナを形成していく。
(詳説世界史 山川出版社)
(アメリカの植民地支配)
ポルトガルは主に東南アジア方面の香辛料貿易に従事したが、アメリカではカブラルが発見したブラジルを所有して植民地とした。
スペインは先述したようにインディオやアフリカの黒人奴隷を使用して金銀の採掘やタバコなどのプランテーションを経営した。
17世紀になるとオランダは1621年に西インド会社を設立してアフリカ西岸とアメリカとの通商を行って北アメリカにニューネーデルラント植民地を設立してその中心地ニューアムステルダム(毛皮取引とオランダの植民地経営の基地として繁栄
したが1664イギリスの支配下に入り、のちにニューヨークと改名された)が繁栄した。
フランスは17世紀の初めケベックを中心にカナダに進出してルイ14世の時代にはミシシッピ川流域にルイジアナ(ルイ14世のなにちなんでつけられた)を建設した。
イギリスは17世紀初めにアメリカ東岸にヴァージニア植民地を形成し、1620 年にはイギリス本国で迫害されていたピューリタン(かルヴァン派)の102名が信仰の自由を求めて、メイフラワー号に乗って北アメリカのプリマスに上陸した。
18世紀前半までにイギリスは政治的・経済的自由を求めて設立された13州の植民地を建設して独自の議会を持ち、自治権を持っていたのでのち、イギリスに対して独立戦争を起こすことになる。
イギリスとフランスはヨーロッパでの戦争と並行してアメリカでも植民地獲得戦争をおこなった。
ヨーロッパでスペイン継承戦争(1701~14)の時はアメリカ時ではアン女王戦争、オーストリア継承戦争(1740~48)の時はジョージ王戦争、七年戦争(1756~63)の時はアメリカでフレンチ・インディアン戦争、インドでプラッシーの戦い(1757)が行われた。
ここれらの戦争の結果イギリスが勝利をおさめて世界の植民地を支配した。
そこでこれらの戦争をもう一度復習してみよう。
スペイン継承戦争について説明すると、ルイ14世の后がスペイン王女だったので1700年スペイン・ハプスブルク家が断絶するとルイ14世は孫のフェリペ5世を王位につけた。イギリス・オランダ・オーストリアなどはスペインとフランスが合併して強大化するのを恐れてフランスと戦った。その結果ユトレヒト条約が締結され、スペインとフランスが合同しないことを条件にフェリペ5世の即位が承認され、イギリスはフランスからニューファンドランド・アカディア・ハドソン湾地方を、スペインからジブラルタル・ミノルカ島を獲得した。
オーストリア継承戦争はオーストリアの皇帝カール6世の娘マリア・テレジアが即位してハプスブルク家の領土を継承するとプロイセンのフリードリヒ2世がバイエルンやフランスと結びオーストリアのマリア=テレジア(イギリスが支持した)と戦った。その結果、プロイセンはシュレジエンを獲得して、マリア=テレジアはのオーストリアの王位は認められた。
マリア=テレジアはシュレジエンの奪回を目指して長年対立していたフランスと結んで(外交革命)、プロイセンと戦ったがシュレジエンを回復できなかった。
これが七年戦争である。
(三角貿易)
スペインとポルトガルによる新航路の発見、新大陸進出によって大西洋岸が繁栄した。
西インド諸島ではスペイン人はインディオを使用して栽培させた、サトウキビ・タバコ・綿花とメキシコで彼らに採掘させた大量の銀をヨーロッパにもたらした。
ヨーロッパからアフリカに武器や日用品を送り、アフリカから奴隷がアメリカ大陸に送られた(奴隷貿易)。これを三角貿易という。
