(プロイセンとオーストリアの絶対主義)
12世紀ブランデンブルク辺境伯領が現在のブランデンブルク州の大部分とベルリンおよびポーランドの一部に成立した。そして14世紀の金印勅書(1356年神聖ローマ皇帝の選出権を7人の選帝侯に与えた)によってブランデンブルク選帝侯国が成立して15世紀にここをホーエンツォレルン家が支配した。
一方ドイツ東方植民により13世紀に十字軍遠征のころ成立したドイツ騎士団領はバルト海貿易で繁栄したがこれがもとになって16世紀にプロイセン公国成立して、ここもホーエンツォレルン家が支配した。その結果、ブランデンブルク選帝侯国とプロイセン公国が合同して1618年にブランデンブルク=プロイセン同君連合が成立した。
この国のフリードリヒ=ヴィルヘルム(在位1640〜88)は三十年戦争後の1648年のウェストファリア条約で東ポンメルンなどを獲得した。
ここで三十年戦争についてもう一度、復習してみよう。
宗教改革後、ドイツでルター派が広まるとルター派諸侯とカトリック諸侯とが対立し、やがてシュマルカルデン戦争(1546〜47)が起こり、1555年アウグスブルクの和議が成立した。この結果、諸侯はカトリック派もルター派のいずれをも採用できるが領民はそれぞれの諸侯の宗派に従うという原則が確立して個人の信仰の自由が認められなかった。
だから、これ以後もカトリック(旧教派)とプロテスタント(新教派)が対立していった。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝のフェルディナント2世がベーメンの新教徒を弾圧したことをきっかけに三十年戦争(1618〜48)が起こった。
新教側にスェーデン・デンマーク・ブランデンブルク=プロイセン・フランス(カトリック教国であったがハプスブルク家と対立していたので新教側に参加)などが参加したのに対してカトリック側はスペイン・神聖ローマ皇帝、オーストリア大公国などが戦った。
この戦争の結果、ウェストファリア条約が結ばれてブランデンブルク=プロイセンは東ポンメルンなどを獲得したのである。
三十年戦争で戦場となったドイツは国土が荒廃して人口は1800万人から700万人に減少したといわれている。
また戦争後、ドイツ諸侯の完全な主権が認められ約300の領邦国家が成立して領邦君主の完全な主権が認められ、政治的に分裂して神聖ローマ帝国は事実上解体した。
三十年戦争後、比較的被害の少なかったプロイセンとオーストリアが台頭してきた。
さてプロイセンではブランデンブルク=プロイセン同君連合のフリードリヒ=ヴィルヘルムの後に即位したフリードリヒ1世(在位1688〜1713)は北方戦争(1700〜21)でロシア側に立って参戦してスウェーデンと戦った(北方戦争については後述する)
そしてスペイン継承戦争(1701〜13)ではオーストリアを支持した代償として王の称号を認められてプロイセン王国(ホーエンツォレルン家)となった。
そこでスペイン継承戦争とはどいう戦争であったのだろうか。
スペイン継承戦争(1701〜13)はスペインのハプスブルク家(16世紀にオーストリアハプスブルク家からスペイン王が出てオーストリアとスペインをハプスブルク家が支配していた)
が断絶したとき、フランスのルイ14世の后がスペイン王女であったので、かれの孫フェリペ(5世)をスペイン王としたので、スペインとフランスの合併をおそれたイギリス・オランダ・オーストリアのハプスブルク家・プロイセン王国が戦った。その結果、ユトレヒト条約でスペインとフランスが合同しないという条件でフェリペ5世の即位が認められた。その代償としてイギリスはフランスからアカディア・ハドソン湾地方を得て、スペインからジブラルタル・ミノルカ島を得た。
また1714年には神聖ローマ皇帝とフランス王ルイ14世の間でラシュタット条約が締結されてオーストリアがスペイン領ネーデルラント・ミラノ・ナポリ・サルデーニャを領有することになり、これでスペイン継承戦争は完全に終結した。
このスペイン継承戦争でブランデンブルク=プロイセン同君連合は王の称号を認められプロイセン王国となったのである。
プロイセン王国(ホーエンツォレルン家)のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世(在位1713〜40)は産業を保護育成し、財政・行政を整え、徴兵令をしき、8万人余の兵力を整備するなど軍政改革をおこなったので「軍隊王」とよばれ、絶対王政の基礎をつくった。
次のフリードリヒ2世(在位1740〜86)は「君主は国家第一の僕」であると自称し、ヴォルテールらのフランス啓蒙思想の影響を受けて、内政面では新教の自由を認め、産業の育成や司法改革など国民の福祉の向上につとめた。
プロイセンなどでは市民の成長が不十分だったので、君主主導の上からの改革をすすめる体制がとられた。これを啓蒙専制政治といい、フリードリヒは啓蒙専制君主とよばれた。そのほかにロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのヨーゼフ2世も啓蒙専制君主とよばれた。これらの国は一般に農民保護などの社会改革をめざす反面、国内の経済発展が未熟なため貴族に対抗できるブルジョワが成長していなかったので上からの改革にとどまった。
フリードリヒ2世はポツダムにロココ式のサンスーシ宮殿を建てて、ここでヴォルテールなど学者や芸術家と交流を深めた。
プロイセンの政治はユンカー(プロイセンの土地貴族でエルベ川以東の大地主貴族の出身で官僚や軍人の要職を独占した)の支持を受けた絶対主義体制で農民の地位は農奴の身分におかれて改善されなかった。
1740年フリードリヒ2世はオーストリアのカール6世に男子がいなかったので娘マリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を継承したことに異議を唱えてバイエルン公やフランス王らと結んでイギリスの支援を受けたオーストリアと戦った。これをオーストリア継承戦争(1740〜48)という。この結果マリア=テレジアの王位は認められたが、シュレジェンをプロイセンに割譲した。
オーストリアのマリア=テレジアはシュレジエンを奪回するために長年対立していたフランスと結んで(オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家は対立していたが、プロイセンの台頭に脅威を抱いたオーストリアハプスブルク家のマリア=テレジアは長年対立していたフランスと同盟したのでこれを外交革命という)さらにロシアとも同盟してプロイセンのフリードリヒ2世と戦ったが敗北してシュレジエンを回復できなかった。これが七年戦争(1756〜63)である。
先に述べたスペイン継承戦争(1701〜13)、オーストリア継承戦争(1740〜48)、七年戦争(1756〜63)はヨーロッパで行われたが、同時期に北米やインドでイギリスとフランスの植民地をめぐる戦争でもあった。
スペイン継承戦争のとき、北米ではアン女王戦争、オーストリア継承戦争の時はジョージ王戦争、七年戦争の時期に北米でフレンチ・インディアン戦争、インドでプラッシーの戦い(1757)がおこなわれた。その結果、イギリスはフランスに勝利をおさめて世界の植民地を支配することになった
(ポーランド分割)
1772年、プロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのヨーゼフ2世とロシアのエカチェリーナ2世は第一回ポーランド分割に参加した。
さらに1793年にロシアのエカチェリーナ2世はヨーロッパ諸国がフランス革命に忙殺されている間、プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム2世と第二回ポーランド分割をおこなった。オーストリアはフランス革命軍に敗北したのでこの分割には参加できなかった。
ポーランドのコシューシコはアメリカ独立戦争に義勇軍を派遣して活躍して帰国後、ポーランド軍司令官となって列強のポーランド分割に反対して農民兵を含む部隊を率いて蜂起してロシア軍と戦ったが敗北した。
1795年の第三回ポーランド分割ではロシア・オーストリア・プロイセンの三国によってふたたび、分割されてポーランドは消滅した。
プロイセン王国はそのあと、フランス革命後に現れたナポレオン軍と戦ったが敗北した(1806)。そしてシュタインやハルデンベルクの軍政改革などがおこなわれてイギリスなどと同盟してナポレオン軍を破った。以後プロイセンはドイツの中心としてビスマルクのもとでオーストリアやフランスと戦ってドイツ帝国を完成させた(1871)。
ロシアの絶対主義
(ノルマン人の移住とロシア)
ノルマン人はスカンディナヴィア半島を原住地としていたが、かれらの一部は8世紀後半から12世紀にかけて商業活動や海賊行為(ヴァイキングとしておそれられた)をおこないヨーロッパ各地に建国していった。
その結果、フランス北部にノルマンディ公国、地中海に両シチリア王国、イングランドに侵入してアングロサクソン七王国を滅ぼしてノルマン朝を建国した。
ロシア方面にはルーシ(ルス)族のリューリクを首領としてノヴゴロド国を建国した。リューリクの一族が南部にキエフ公国を建国して先住民のスラヴ人と混血してスラヴ化が進み、黒海とバルト海を結ぶ交通路を支配して強力となり、これがロシアの起源となった。
キエフ公国はウラディミル1世(在位980ころ〜1015)のとき最盛期を迎えた。かれはビザンツ帝国の妹と結婚を契機にギリシア正教(キリスト教)に改宗してこれを国教としてビザンツ文化を受容することによってロシアの国家を整備した。またノルマン人(ルーシ)には植民を奨励して農奴制を推進した。
しかし13世紀になるとチンギス=ハンが建国したモンゴル帝国のバトゥの遠征によってワールシュタットの戦い(1241)でドイツとポーランドの連合軍が敗れてモンゴル人は南ロシアにキプチャク=ハン国を建国したのでロシアはその支配下に入った。
モスクワ大公イヴァン3世(在位1462〜1505)は諸侯国を併合して国土を統一して、モンゴル人の支配から独立して(1480)モスクワ大公国の基礎をつくった。
1453年にビザンツ帝国はオスマン帝国に滅ぼされていたがイヴァン3世はビザンツ帝国の最後の皇帝の姪と結婚してツアーリ(皇帝)の称号と帝国の紋章である双頭の鷲を受け継いだ。王冠を戴く双頭の鷲は東西ローマ帝国を表すビザンツ帝国の紋章でイヴァン3世が妻の生家の紋章を使用したのである。
イヴァン3世の孫、イヴァン4世(在1543〜84)は公式にツアーリ(皇帝)と称した。ロシア皇帝はビザンツ帝国の後継者、ギリシア正教(西ローマの教皇を頂点としたローマ=カトリック教会に対してビザンツ皇帝を首長とした教会をギリシア正教会という。この教会はロシアに引き継がれていった)の擁護者となった。
モスクワは古代ローマ帝国の首都ローマ、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに続く「第3のローマ」と呼ばれた。すなわち古代ローマ帝国、これが東西に分裂して東ローマ帝国(ビザンツ帝国)そのあとをロシアのモスクワ大公国が引き継いでのである。
イヴァン4世はギリシア正教の首長を兼ねて貴族を弾圧して雷帝と恐れられ、農奴制を強化し、専制政治の基礎をかためた。かれは領土をロシア南部まで拡大してコサックの首長イェルマークをシベリアに遠征させてシビル=ハン国をイヴァン4世に献上した(シビル=ハン国がシベリアの起源)。イヴァンの死後内紛が続いたあと、ミハエル=ロマノフ(在位1613〜45)がロマノフ朝(1613〜1917)を創始して専制支配と農奴制を強化していった。しかしその後、ロマノフ朝は17世紀中ごろになると領土をめぐってポーランドと戦い、国内ではステンカ・ラージンの農民反乱がおこった。ドン=コサック(ドン川流域に住むコサックのことで、コサックとは南ロシアの辺境地帯に住む騎馬に長じた戦士集団で、14世紀以降、農奴制を逃れた人々が牧畜・狩猟・漁業などで生計を立てて集団をつくって、しばしば反乱を起こしたが、一方でシベリア開発などに利用された。イヴァン4世の時代にシベリア開発をおこなったイェルマークもドン=コサックの族長である)の指導者のラージンは逃亡農民からなるコサックをひきいて1667年に反乱を起こして、政府や商人の船を襲って奴隷を解放したが鎮圧されてラージンは処刑された。
17世紀末に即位したピョート1世在位(
1682〜1725)は西欧技術の導入をはかるため、自分を含む300人の使節団を組織して西欧視察をおこない、近代的改革をめざした。かれは身分を隠してイギリスやオランダを訪問して大砲の製造、造船術に興味をもちオランダのアムステルダムでは4ヶ月間、東インド会社の造船所で働いて造船技術を学ぶなど西欧の科学や技術を積極的に取り入れて軍備の拡大や産業の振興をはかった。
対外的にはシベリア経営を進め、清とは1689年ネルチンスク条約を結んで国境を定め通商を開いた。
また、バルト海を支配していたスウェーデンでカール12世が即位するとピョートル1世はポーランド・デンマークと結んでスウェーデンと北方戦争(1701〜21)をおこなってバルト海に進出した。
戦争中の1703年、沼地を埋め立てる過酷な工事で約で6万人の犠牲をだしながら『西欧への窓』となるサンクト=ペテルブルクを建設を開始して完成後、1713年モスクワからここに首都を移した。
18世紀後半、ドイツ生まれのエカチェリーナはピョートル3世の妃であったがクーデタよってピョートル3世を廃位してエカチェリーナ2世(在位1762〜96)として帝位についた。
エカチェリーナ2世はフランス文化を愛好して啓蒙思想家のヴォルテールと文通して啓蒙専制君主とよばれたが1773年、プガチョフの乱(コサック貧農出身のプガチョフがピヨートル3世の名をかたって南ロシアで起こした反乱で農奴制の廃止などを掲げたが処刑されて鎮圧された)が起こると反動化して農奴制を強化していった。
対外的には16世紀後半にポーランドでヤゲヴォ朝が断絶すると選挙王制のもとで国内の貴族が対立したので先ほど述べたように1772年プロイセンのフリードリヒ2世に誘われてオーストリアのヨーゼフ2世とともに第1回ポーランド分割をおこなった。その後、第2回(1793)第3回(1795)ポーランド分割をおこなったためポーランドは消滅してしまった。
また南方では黒海北岸のクリミア半島をオスマン帝国から奪い、東方ではオホーツク海まで進出した。
このころ伊勢出身の日本人漁民大黒屋光太夫は江戸に向かう途中、嵐にあって漂流してアリューシャン列島に漂着した。ロシア人に救助されてサンクト=ペテルブルクまで連行されてエカチェリーナ2世に謁見した。
エカチェリーナ2世は1792年日本の根室にラクスマンを派遣して大黒屋光太夫ら漂流民を送り届ける代わりに江戸幕府に交易を要求した。
ラクスマンは根室の松前藩で幕府代表と交渉したが、老中松平定信は鎖国を理由に交渉を拒否して長崎での交渉が可能であるとして国交樹立の約束と長崎入港の許可証だけを与えたのでラクスマンは目的を達成できず帰国した。
その後1804年レザノフが約束どおりアレクサンドル1世(1801〜25)の親書を持って長崎に派遣されて開国を要求したが幕府はこれを拒否した。