世界史まるわかり
第1次世界大戦中の1917年、連合国(協商国側)のロシアで革命が(三月革命・十一月革命)、起こったのでロシアは戦争から離脱して戦争をやめた。
今回はロシアの成立からロシア革命までの歴史を概観してみよう。
(ローマ帝国、ビザンツ帝国とロシア)
古代ローマ帝国はイタリアのローマを中心に現在のヨーロッパからアフリカ北部、地中海東岸を支配した大帝国で前27年から東西に分裂する395年まで続いた。
アジアの遊牧民フン族が黒海北岸にいた東ゴートを服属させ、その西隣りのいた西ゴートを圧迫してので西ゴートは375年ローマ帝国内に入ると他のゲルマン諸族も続々と帝国内に移動した。
ローマ帝国は395年東西に分裂したが、西ローマ帝国はこの混乱のなかでゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって476年に滅ぼされた。このようにしてゲルマンの諸王国はヨーロッパ各地に移動して建国していった。
イタリアに東ゴート王国・ランゴバルド王国、イベリア半島に西ゴート王国、アフリカ北部にヴァンダル王国、イギリスにアングロ=サクソン七王国、フランス北部にフランク王国、フランス南部にブルグンド王国が成立した。このうちフランク王国は現在のドイツ、フランス、イタリアのもとになった。
フランク王国はローマ教皇を首長とするローマ=カトリック教会との提携によって発展してヨーロッパの封建社会を形成した。
ゲルマン民族移動のきっかけをつくったアジアの遊牧民フン族は西ローマと西ゴート、フランクの連合軍に451年のカタラウヌムの戦いで敗れてアッティラ帝国は崩壊した。
一方、東ローマ(ビザンツ)帝国はコンスタンティノープル(ビザンティウム)を首都を定めてビザンツ皇帝を首長とするギリシア正教会が発展して1453年イスラム教国オスマン帝国(トルコ)に滅ぼされるまで続いた。
その北方にあったロシアがビザンツ皇帝の継承者として皇帝の称号(ツアーリ)を引き継いで伝統あるビザンツ文化とギリシア正教を引き継いでロシア建国の理念としていった。
(アカデミィア 世界史 浜島書店)
上の地図の中央部緑の線が西ローマ帝国と東ローマ(ビザンツ)帝国が395年に分裂した時の境界線である。
(ノヴゴロド王国、キエフ公国)
4〜6世紀のゲルマン民族の大移動の後、9〜11世紀にバルト海やスカンジナビア半島南部を原住地とするノルマン人(ヴァイキング)がヨーロッパ各地に移住して建国した(第2次ゲルマン民族の大移動)。ノルマン人はヴァイキング(入江の民の意味)で海賊と呼ばれているように細長い船に乗ってヨーロッパを侵略して各地に建国していった。
北フランスのノルマンディ公国、地中海の両シチリア王国、イギリスのノルマン王朝などがその例である。
そして9世紀ロシアに進出したノルマン人の一派のルス族はノヴゴロド国を建国(862)し、その一部が南部にキエフ公国を建国した(882ごろ)。ノルマン人はもともとこの地に住んでいた多数のスラヴ人と同化していった。
キエフ公国ではウラディミル1世(在位980ごろ〜1015)がビザンツ皇帝の妹と結婚して、これを機にギリシア正教のキリスト教に改宗してそれを国教として宗教的統一をはかりビザンツ文化を受け入れて繁栄したが13世紀にモンゴル民族が侵入してキエフ公国は滅亡した。
この南ロシアの地にモンゴル民族はキプチャク=ハン国が建国して、スラヴ人のロシアを2世紀以上支配した。
モスクワ大公イヴァン3世(在位1462〜1505)はキプチャク=ハン国から1480年独立して、ビザンツ皇帝の姪と結婚してツアーリ(ビザンツ皇帝の称号)と帝国の紋章(双頭の鷲)、ビザンツ文化、キリスト教(ギリシア正教)を引き継いだ。
(ビザンツ帝国は1453年イスラム教国のオスマン帝国に滅ぼされていた)。
ついでイヴァン4世(在位1533〜84)は公式にツアーリの称号を用いてビザンツ帝国の後継者、ギリシア正教の擁護者となり、モスクワは「第3のローマ」と呼ばれた(イタリアのローマ、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル、に次いでモスクワは第3のローマである)
(アカデミア世界史 浜島書店)
この地図の東のアッバース朝、ブワイフ朝、中部のエジプトのファーティマ朝、西のイベリア半島の後ウマイヤ朝はいずれもイスラムの王国である。
イスラム教はアラビア半島の地図上のメッカに生まれのムハンマド(マホメット)が7世紀創始し、神「アラー」の前に全ての人は平等であるという宗教で、最初はアラビア人が中心であったが(アラブ帝国)、イラン人、エジプト人、ゴート人、トルコ人など人種を超えて拡大していったのでイスラム帝国とよばれた。
13世紀末にはイスラム教国のオスマン帝国が興って1453年ビザンツ帝国を滅ぼすのである。
(ロシアの絶対主義 )
さて、イヴァン4世後のロシアに戻ってみよう。
ロシアではピョートル大帝(在位1682〜1725)の時代に西方ではスウェーデンを破り(北方戦争1700〜21年)バルト海に進出して「西欧の窓」ペテルブルクを建設した。東方ではシベリア方面に進出し、中国の清と国境を定める(1869年ネルチンスク条約)などロシアの領土を拡大して絶対主義を確立した。
17世紀後半にイギリスに革命(ピューリタン革命・名誉革命)が起こり、18世紀になるとフランス革命、アメリカ独立革命が起こって自由・平等の理念がロシアにも広まった。
とくにフランスのナポレオン1世がヨーロッパを支配したがそれに従わなかったロシアに遠征した(ナポレオンは1806年大陸封鎖令を出してヨーロッパ諸国がイギリスと貿易することを禁じたがロシアはこれを守らなかった)がナポレオン軍は寒さと飢えで退却に追い込こまれて、ロシア遠征は失敗に終わった。
ナポレオン戦争中、ナポレオンを追ってフランスに入ったロシア軍の将校たちはフランスの自由と平等の理念を肌で感じた。また将校たちはイギリスに起こった産業革命に大きな刺激を受けた。
19世紀になるとアレクサンドル1世(在位1801〜25)がツアーリズム(皇帝による専制政治)を維持するなど専制政治を強化して保守反動化すると自由を求めてデカブリストの乱=(ナポレオン戦争に従軍し、西欧の自由主義の空気を吸ったロシアの青年将校たちは1825年12月ニコライ1世(在位1825〜55)即位の日に立憲君主制の樹立を目指して蜂起)を起こしたが鎮圧された。また、ロシアが支配していたポーランドやハンガリーでロシアの支配に対する反乱が起こったがいずれも鎮圧された。
(農奴解放とロシア社会民主労働党の成立)
19世紀後半になるとロシアにも産業革命が起こり、ツアーリズムに対する批判も強まっていった。
とくにクリミア戦争(1853〜56年。ロシアはフランスが持っていたイェルサレムのキリスト教聖地管理を要求して、トルコ、イギリス、フランスなどと戦った)でロシアが敗北してロシアの黒海、地中海への南下は挫折した(ロシアは不凍港を求めて黒海、地中海への南下政策を行なっていた)。この戦争の敗北でロシアの後進性が暴露された。
(イェルサレムの聖地管理権問題)
クリミア戦争の原因となった聖地管理権問題とは何だろうか。
パレスチナの中心都市イェルサレムはキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の聖地である。ここの支配をめぐってアラブ諸国、イスラエル、パレスチナの間で長い間紛争があり、現在まで続いている。
現在、イェルサレムはイスラエルの支配下にある。2018年トランプ大統領はアメリカ大使館をここに移したのでアラブ諸国の反発が強まっている。
さてこのイェルサレムはオスマン帝国の支配下にあったが、16世紀以降、キリスト教聖地管理権はフランス王が持つようになった。しかし、フランス革命で混乱が起こるとフランスがイェサレムから後退したのでロシアに支援されたギリシア正教徒が19世紀中ごろ、その管理権をオスマン帝国に認めさた。
そこで1852年カトリックに支持されたフランスのナポレオン3世が皇帝に即位すると、ロシアから聖地管理権を回復しようとしてオスマン帝国に要求して認めさせた。
このため、ロシアのニコライ1世はフランスの進出に対抗してオスマン帝国に聖地管理権の復活とギリシア正教徒の保護を口実に同盟しようとしたがオスマン帝国に拒否されたので1853 年クリミア戦争が勃発した。
このクリミア戦争で敗北して近代化の必要を痛感したロシアのアレクサンドル2世(在位1855〜81)は1861年農奴解放令を出すなど改革を進めた。この改革では農奴は人格の自由は認められたが解放された農民が土地を得るためには多額の買戻金必要であったため、ほとんど農民は土地を獲得出来ず農村共同体(ミール)に所属するなど改革が不十分であった。これに不満な学生やインテリゲンツィア(知識人)は農民の中に入ってツアーリズムの廃止など訴えたが(彼らはナロードニキ-人民主義者と呼ばれた)農民の無関心や政府の弾圧により彼らの運動は失敗の終わった。失望したかれらはテロリズムやニヒリズムに走った。アレクサンドル2世もこのテロリズムの犠牲になって暗殺されてしまった。
19世紀末ごろからロシアにも資本主義が発達すると労働者や農民の解放をめざす社会主義思想も広まって1898年にはレーニンやマルトフ、プレハーノフらによりロシア社会民主労働党が結成されたが綱領の決定をめぐって1903年にレーニンが指導するボリシェヴィキとマルトフ、プレハーノフの指導するメンシェヴィキに分裂した。
(ボリシェヴィキとメンシェヴィキ)
ボリシェヴィキは「多数派」の意味で1903年の党内人事で多数派となったため、この名がある。かれらは党のメンバーを革命家に絞って武装革命を重視した。後の1917年の十一月革命を指導してソヴィエト政権を樹立したものでプロレタリアート(労働者階級)を中心とする政党である。
メンシェヴィキは1903年の論争ではブルジョワ(資本家階級)勢力を含む広い大衆を基礎に置く政党で漸進的革命をめざそうとするもので、後の1917年の三月革命後、政権を担当して戦争を継続したため、レーニンの指導するボリシェヴィキの十一月革命で倒された。
(日露戦争)
日露戦争については前章で詳しく書いたのでここでは簡単に述べる。
日清戦争(1894〜95)の結果、日本は勝利をおさめて下関条約で清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を獲得したが、ロシアがドイツ、フランスを誘って三国干渉を行ったたため、日本は遼東半島を返還せざるを得なくなり、日本のロシアに対する敵愾心が高まった。
また日清戦争後、清が敗北して日本に支払う賠償金などを外国の資金援助でまかなったが、代わりに鉄道の敷設権、鉱山の採掘権などを欧米列強(イギリス、フランス、ドイツなど)に奪われて、清は列強に分割された。清国内では列強の侵略に対して義和団事件(中国人によるキリスト教徒の殺害や教会の破壊などが起こたので列強8ヶ国の軍隊により鎮圧された。日本も多数の軍隊を派遣した)。
ロシア軍は義和団事件後も満州から撤兵せず、朝鮮への影響を強めてきたので朝鮮を支配しようとしていた日本と対立して日露戦争が勃発した。
日露戦争(1904〜05年)は日本の旅順攻撃に始まり、満州南部、黄海、日本海などを主な戦場として戦い、日本は勝利をおさめた。しかし、日本の国力は消耗し、ロシアでも第1革命(次の項目で説明)が起こったのでアメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介でポーツマス条約が結ばれて講和した。
(ロシア第1革命)
1905年1月、日露戦争の最中にロシアの首都ペテルブルクで労働者を中心とする民衆が戦争の中止を皇帝ニコライ2世に請願するデモを行ったが、これに対して軍隊が発砲して 2000人以上の死傷者が出た。これをきっかけに各地にストライキが広がった。6月に黒海艦隊のポチョムキン号で水兵の反乱が起こったり、10月には鉄道、郵便などがストライキを行った。各地で労働者と兵士のソヴィエト(労働者者と兵士の協議会)が組織された。そこで皇帝ニコライ2世が勅令をだして立憲政体の採用や国会(ドゥーマ)の開設を約束した。
1906年国会は開設されたが貴族中心の機関であり、ストルイピンが首相になると反動政治を行い、自由主義勢力を弾圧するのなど専制政治は続いた。
(ロシア三月革命、十一月革命)
第1次世界大戦中に協商国(連合国)側で参戦していたロシアでは戦争が長期化して物資が不足して国民生活は窮乏化していった。
1917年3月、ロシアの首都ペテログラードで労働者のデモやストライキが頻発し兵士にもその影響が広がり、ソヴィエト(労働者と兵士の協議会)が各地に成立した。
その結果、皇帝ニコライ2世が退位して300年続いたロマノフ王朝は滅亡した。これを3月革命(ロシア暦では2月革命)という。この革命によりロシアの専制政治が打倒された。
その後、ブルジョアジー中心の臨時政府が成立して、戦争を継続した。
4月スイスから帰国したボルシェヴィキのレーニンは戦争を継続する臨時政府に対して「戦争の即時停止」「すべての権力をソヴィエトへ」などを内容とする「四月テーゼ」を発表した。
1917年11月、ボルシェヴィキ(のちの共産党)が再び革命を起こして社会革命党右派のケレンスキー首班の臨時政府を倒してソヴィエト政府を樹立した。これを十一月革命という。
ソヴィエト政府は第1次世界大戦の交戦国に対して「無併合・無賠償」による講和を呼びかけたが無視されたので、1918年ドイツと単独講和を結んで戦争から離脱した。このことは連合国にとっては大きな衝撃であった。
しかし、この革命が起こった1917年、アメリカが連合国側に立って参戦したこにより戦局は連合国に優勢となった。
(アメリカの参戦)
前章で詳しく述べたのではここでは簡単に述べる。
第1次世界大戦ではアメリカは中立を守っていたがイギリスやフランスの債権国であったことから、両国がドイツに敗北することを恐れた。また1915年のルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈されてアメリカ人に多数の死者が出たこと、1917にはドイツが無制限潜水艦作戦(軍事的に劣勢となったドイツが交戦区域に入った船舶は国籍を問わず、無差別・無警告に撃沈するとしたイギリスへの対抗策であった)を発表すると、巨大な生産力を持つアメリカが参戦することになった。
多数のアメリカ軍がヨーロッパに派遣にされたことによって戦局は大きく転換して連合国側に優勢となった。
1918年3月からドイツは反撃にでたものの、同盟国のブルガリアが9月に降伏し、10月にはトルコが降伏した。11月にはオーストリアで革命が起こって降伏した。
ドイツは西部戦線に全兵力を投入して攻撃したが効果なく8月以降退却して10月、アメリカ大統領に休戦を申し入れた。
(ドイツの降伏)
ドイツ国内でも物資が不足し、ロシア革命の影響が兵士や労働者に広まった。
1918年11月3日、キール軍港の水兵の反乱をきっかけにドイツ革命が起こって皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命した。その結果、共和政が成立して社会民主党のエーベルトを首相とする内閣が成立した。
11月11日に新政府は連合国に降伏して休戦条約が結ばれて第1次世界大戦は終わった。