(南蛮貿易)

 南蛮貿易とは16世紀後半の戦国時代から17世紀の初めの江戸時代初期にかけて日本とポルトガル・スぺインとの間で行なわれた貿易である。スペイン人やポルトガル人は南蛮人とよばれたからこの名がある。

 1543年ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたが、それ以後、ボルトがル人はマカオを拠点に毎年のように九州の諸港、長崎・平戸などに来航して、日本と貿易をおこなった。スベイン人も1584年に肥前の平戸に来航して、貿易をおこなった。 スペインはフィリピンのマニラを拠点に日本と直接貿易をおこなった。フィリピンは1521年にマゼランがに到着してから長い間スぺインが支配したが19世紀末の「米西戦争」後、アメリカ領となり、「太平洋戦争」で日本軍が侵攻したが戦後の1946独立した。

 南蛮貿易ではスペイン・ポルトガル人は鉄砲、火薬、中国産の生糸(当時日本では生産されなかった。特に上質な白糸は珍重された)、砂糖、ガラス製品などを日本にもたらした。日本から石見銀山などの銀、刀剣、漆器などを輸出した。またスペイン・ポルトガルの船は物品だけでなく宣教師も船に乗って来日していたので長崎などを拠点にキリスト教は日本に広まった。貿易と布教は一体化していたのである。


(鉄砲伝来とその影響)

 1543年、ポルトガル人を乗せた船が種子島に漂着した。この時がヨーロッパ人が日本に来た最初である。島主の種子島時堯( ときたか)は彼らの鉄砲を買い求め、家臣に鉄砲の製造法と使用法を学ばせた。これ以後、ポルトガル人は九州の港に来航して、日本と貿易を行った(南蛮貿易)。

 初めて鉄砲(火縄銃)が実戦で使用されたのは、1549年の薩摩(鹿児島)の島津氏による 「加治木城攻め」である。その後、織田信長が鉄砲を初めて戦場に導入した戦いは、1554年尾張(愛知)の「村木砦の戦い」で、この戦いで鉄砲を使用して今川義元軍を破った。さらに1575年の「長篠の戦い」で信長・徳川連合軍は約3,000挺の鉄砲を使用して武田勝頼軍を破った。この戦いで信長は「三段撃ち」という戦術を導入して、装填するのに時間がかかるという弱点を克服するため、鉄砲隊を交代で撃たせた。この戦術で当時、最強と言われていた武田勝頼の軍を破ったのである。

 このように戦国大名は鉄砲の使用によって、これまで騎馬や刀による個人の武勇に依存した一騎討ちから鉄砲隊による集団戦法に変わった。このため高度な訓練を必要としないで相手に遠距離から強力な攻撃を与えることができた。

 鉄砲は国友(滋賀)、堺(大阪)などで生産されて全国に広まった。信長は国友村などを支配下において大量の鉄砲を生産し、南蛮貿易で原料の鉛や火薬も積極的に購入したことが天下統一に役立った。

 日本にキリスト教が初めて伝えたのは1549年スペイン人のイエズス会宣教師フランシスコ•ザビエルである。以後、約2年にわたって西日本を中心に布教活動を行い多くの信者を得て、のちのキリスト教伝来と南蛮貿易のきっかけとなった。これをもっと詳しくみてみよう。


(キリスト教の伝来とイエズス会)

 フランシスコ・ザビエルは、ポルトガル王の要請をを受けて、当時、植民地であったインドに向かいゴア、セイロン、マラッカなどで布教した。マラッカで会った日本人のヤジローの案内で、1549年に薩摩(鹿児島)に来航し、守護大名の島津貴久の許可を得て日本に初めてキリスト教を布教した。

 イエズス会は、フランシスコ・ザビエルやイグナチウス・ロヨラら7人によって1534年パリで創設され、1540年ローマ教皇パウルス3世によって正式に認可された男子修道会である。16世紀ルターやカルヴァンらによる宗教改革により、新教徒(プロテスタント )が生まれたがこれに対してローマ・カトリック(旧教)側は反宗教改革・対抗宗教改革の立場をとり、教皇の至上権の確認、新大陸やアジアへの布教などよって勢力挽回をはかろうとした。イエズス会の組織は軍隊的規律をもとにカトリック教会の再興と神への絶対的服従・清貧・貞潔を誓った。イエズス会の現在の世界の会員数は約16000人以上で世界各国で教育・布教・出版などの活動してる。

 ザビエルはイエズス会の方針にしたがって鹿児島に来航したのである。その後かれは、長崎の平戸、山口で布教し、さらに室町幕府の将軍や天皇に布教な許可を得るために1550年から51年にかけて京都をおとずれたが応仁の乱(1467~77)後の京都の荒廃や、戦国大名の台頭による政治的混乱、宗教的対立もあって面会は叶わなかった。そのため断念して約11日間で京都をはなれて山口に引き返し、ここで大名の大内義隆から布教の許可を得て布教した。その後、豊後国府内(大分)の大名、大友宗麟の保護を受け、布教活動を行った。

 豊後国の大友宗麟(義鎮)、肥前国(長崎)の有馬春信、大村純忠(すみただ)のキリシタン大名はイエズス会の宣教師ヴァリニャーノの勧めにより、1582年、伊東マンショ・千々岩(ちぢわ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの4人の少年をローマに派遣した。かれらはインドのゴア・ポルトガルのリスボンをへてローマに到着して、ローマ教皇グレゴリウス13世に会い、欧州各地を訪問した。かれらはヨーロッパ各地で大歓迎された。約8年半後の1590年に帰国した。これを天正遣欧使節という。

 かれらはローマ教皇とスペイン・ポルトガル国王に謁見し、日本で多くの人々がキリスト教に改宗していること、さらに多くの宣教師を派遣してほしいこと、経済的援助などを求めた。そして西洋の知識・楽器・活版印刷機などを日本に持ち帰った。 かれらが帰国した時は豊臣秀吉のバテレン追放令(1587 )が出されていて禁教の時代に入っていた。

 なお、徳川時代1613年には、仙台藩主・伊達政宗が派遣した支倉常長らの「慶長遣欧使節」がある。



(プロムナード日本史 浜島書店)