早朝、ほとんど毎日(雨天休止)走りつずけている三月から、不思議と続いている。

最初は苦しくて、やめたかった足元がふらふらで、くぼみがあったら足をとられて転びそう。

走った後は息をゼーゼートまるで結核患者のように咳き込んで苦しかった、走っているときは、

まるで過去の罪業を償うかの様に(悪事を働いたことはないが)、何故こんなに苦しいのか一帯俺が

何をしたとか、宗教ではないが生きることは苦しくて、苦しむことが生てる証だとか、病人が闘病に苦しむ

姿を勝手に連想したりと苦しくて辛いので勝手な妄想に苦しんだ、最初は苦痛だった。

苦しくて数度走る事をやめて歩くと言い知れない挫折感や罪悪感に苦しめられた、きめられた時間なり、距離なりを走るまで、止まることが出来ないとそう勝手に思いこんで。

でも走り続けていると、ふとある日健康の為走っているのに、何故苦しまなければならないのか疑問が芽生えた

そんなとき、松村邦洋氏の東京マラソンでの心停止事故のニュースや前後するが5時間近い無理な散策を通じてつまらない意地で怪我して一帯誰が一番苦しむんだ、走ってる最中止まったってどんな罪になるんだ、子供の頃聴いた アリス(谷村新司、堀内孝雄、矢沢透化石ノ世界)の「ゴールは見えない」を思い出した、誰も責めは、しない・・・・という歌詞を思い出した、止まってもいいんだ途中でそう楽に思えたと同時に、走り続けるのも勇気かもしれないが、止まることも勇気なんだとも思った。

そんなことを考えつつ走っていると、ある単純なことに気ずいた、止まらなくてもいいように走ればいいのでは?

止まらなくても、ペースダウンして息を整えれば良い、短純なことだったそう思ったら楽に走れるようになった。

でもまだ走ってる最中に止まることにまだ若干抵抗がある、走ることに以前ほど苦しまなくなった。

昔、オリンピックの選手で円谷幸吉という選手が自殺した、その人も止まる勇気をもてたなら自殺しなかったのか

とも思った、他人からみたら走るぐらいで死ぬなんてと思うが、オリンピックの重圧てすごく重いと思うが立ち止まる勇気必要だと思った。

人生においても必要な言葉かもしれない立ち止まる勇気て、おかげで朝走ることが、楽しい苦しい事に変わり

はないが、そして飽きないように工夫した、走るコースを変えたり、昨日走った逆から走るとか、同じ距離を走るにしても、ペース配分を考える電柱三本分ダッシュしてその後はほとんど歩くのと変わらないスピードで走り、その後は最初のペースに戻すそんなことをしていたら、いかに滅茶苦茶に走っていたのか自覚した、走る事に変化を

付けたら好い刺激になった、そして雨の日は割り切って走らない(ただ小雨だと走る)、通常傘が必要な状態になると、走ることを自然に休んだ(飲酒した次の日は辛くても走る)、ここで不思議なことが起きる、その翌日調子が決まって良い、一日だけの休息なら体に良いのだとわかった(休息の必要性を痛感した)、意志を持って休むことも必要と思った。そしたら距離というか(自分のランニングは一定の距離を走るのでなく一定の時間を走るので)

走る時間が延びた10分から15分にそしてその時間内に走れる距離も、一流の選手なら約5キロを走る時間に相当するらしい、そんなことを意識してペースをあげると続かなくなる。

一度マラソン42・195に挑戦したい、でも焦らずゆっくりと何年、何十年かかっても。

最後に走る前の準備が必要だということも気ずいた、柔軟、や腿上げ、腕フリ(上体だけで)などのアップをしたら

調子がいい、いかに自分が非効率に走っているのか痛感させられる。もちろん改良の余地はじゅうぶんある。

走り初めて体が軽くなった、体重は減らないが、そこでダイェットに付いて、どんなダイェットについても文句はつけられないと思うが、ただしこれだけは止めたほうが良いと思うダイェットがある、それは寄生虫ダイェット、

絶対にやせられるのに間違いないと思うがただし、内臓の機能の低下は確実(最悪、内臓を食べられる血まみれ)、やせても体が重い、確実にやせられる病人になるのだから(五体満足歩けなくなる場合もあるのだから)。

それと水を飲んでダイェットこれ自体悪いのではないが、一日5リットル以上飲む人に過食症、や拒食症になる危険がある、そして更に悪いのが水を飲んで吐くのをダイェットにしている人(腸内洗浄の目的で)、もっとあぶない

拒食症になりやすい、そしてモデルの人に食の病気があるのではと疑ってしまう。

走る事、それは自分にとってブログの次に大事なものになってきた、衰えた体力を取り戻したい、それだけでなく

生きる、生きていく自信につながっていく無力感から救ってくれる、物事を続けることが自信につながると教えてくれる。ブログを書くことと同じだ、本当に継続は力なりそう思います。