歴史のブログ、内容が関が原の合戦についてなのだ、ベタを貰い訪問してみたら、もう関が原ネタを書こうと思い立った、そのブログに感動して書きたくてもう、ウズウズ、でも一日で書ききれない一ヶ月でも書ききれないので、

場面だけ、列挙(最近列挙が多い)、まずは一番 「直江状」徳川家康の理不尽に対しての直江兼続の機知で返した手紙、胸のすくお返しだ、細川ガラシャの自害(悲劇の一言)、鳥居元忠の伏見城死守寡兵で大軍を迎え撃つ文字どうりの奮戦、その前七将石田三成襲撃、佐和山隠居(戦の予兆)、前後するが、野州小山の陣、真田父子の決別、山内一豊の手柄(土佐20石の功名)、家康江戸に滞留し諸将奮起促す(秀吉恩顧の大名を東軍にするため画策)、関が原前哨戦、岐阜決戦で落城により関が原野戦へ(島左近の奮戦、三成が島津不戦の原因を作る)。岐阜城を落とされ、大垣城にこもるが東軍がそれを避けるようにして大阪へ進軍、城攻めを避け得意の野戦に持っていこうという家康の意図である

この関が原、家康は実際の戦闘にあまり関与していない、前半は山で観戦しているに過ぎない、この戦いをとうして家康のしたことは数百通の手紙を敵味方に書き続けたことである。対照的に本来の文官である三成の手紙の

少なさが以外である。二人のこの戦に対する考え方の違いが顕著である。家康は、心理戦で実は手紙のやり取りで50%近く勝利を確信していたが、戦は水物で不測の事態が起こることも考え油断していなかった。勝因は

小早川秀秋の東軍参加と西軍の主力となるであろう毛利軍の不戦を毛利軍副将の吉川広家から内諾を得ていたことである。推定4万5千人の西軍が戦わない、東軍7万人(野州小山の陣の軍勢)そして正面で対峙する三成

の軍勢4万人(大谷、小西、宇喜多等)。単純に家康は4対7で勝利と思っていたのだ。実際西軍の不戦は毛利軍の背後の長曽我部、安国寺、長束勢1万も不戦だから、三成は全軍の約3分の1の軍勢が機能したに過ぎなかった、家康には更に、別働隊があった中仙道より3万5千の徳川本軍が参陣するという強みだった。10万近い

軍勢が関が原で東軍として戦う予定だったのだ。

対する、三成も必勝を疑っていなかった、その証拠に関が原開戦当時の布陣はまさしく家康軍7万を包囲した

形だったからだ、それと徳川本軍が上田で真田昌幸に足止めを喰って戦いに間に合わなかったからだ。

ここからが主題、この合戦にはIFもしもがたくさんあったのだ。もしも小早川、もしも毛利である。

小早川が裏切らなくてもどうだろうか、総力戦なら4万対7万で数で西軍を圧倒できると思いきや三成は自領の

近江国友村(全国一の銃器の生産地)の大砲つまり火器で東軍を圧倒していた、少ない軍勢で五分の戦いが出来たのもそのせいだ。もちろん宇喜多、小西、大谷の諸将の奮戦もあるが。小早川秀秋が傍観していたら火器で勝る西軍の勝利だったかも知れないがそうはいかなかった周知のとうりである。

家康が秀秋の陣地に放った鉄砲(家康本人はもう自殺覚悟の小早川軍への発泡だった 大博打)が勝敗を決める。

西軍の敗北である、ここで三成、石田軍、その昔秀吉の小田原征伐の武州忍城の攻略で武将としての才のなさ

を露呈している。兵站の確保や治世においては、抜群の才を誇る、三成は何を隠そう賤ヵ岳の戦いで七本槍に次ぐ功名を立てている武芸不得手ではないが兵略が苦手だったと思われる。その弱点を補うため人材を登用している、関が原の石田軍の中核を担う人間である、島左近であり蒲生郷舎(三成軍の殿軍をして討ち死に)だ小田原の役の後、特に島左近は佐和山の城と島の左近といわれたくらい三成には過ぎたる逸財で、三成2万石の時、

半分の1万石で迎えたというくらいの謀略、戦略の天才で大谷刑部とともに関が原の敗戦をといている。

関が原で石田軍は全滅するほど壮絶な戦いをして、佐和山城でも裏切りを出さずことごとく惨殺されたと聞く。

天下の名士が多く石田家にはいたといわれる所以だ。

でもまだ、もしもがある関が原で負けても三成は家康に勝てると信じていたのだ、田中吉政に伊吹山山中で捕まってもだ。その理由は、大阪城に5万の兵が存在しているのを知っていたからだ(毛利輝元が大阪城にいた、事実上の西軍の大将だった)、自分が率いた兵は豊臣の一部に過ぎないと思っていた。秀頼が健在で大老が大阪城を守っている。戦略的に輝元が籠城したら、西日本は家康の配下ではないのだ西国の大名を動かしてもう一戦できると信じて疑わなかったから源頼朝が石橋山で負けても自害しなかったことを引き合いに出して諦めていないと広言している。実際輝元が吉川広家に説得されて大阪城を去らなければ、家康は征夷大将軍になれなかった。毛利輝元は身内に騙されたのだ、戦後の防、長の二国も吉川広家に与えられたものだった(毛利家は所領没収だった)。

最後のもしもは加藤清正と黒田如水の二人の去就で一つ間違ったら九州から再起した足利尊氏の再来になる

可能性もあった、二人にも書状を送っている。

黒田如水には逸話がある、息子長政が筑前50万石を賜ったと意気揚々帰ってきたとき、長政に書状はどちらのてで受け取ったと聞き、右手といったら、そのあいている左手で何故家康を刺殺しなかったのだとしかりつけたという逸話がある、島津が許された背景にはそんな事情もあるのだ(九州を早く安定させ火種を消したかった。

関が原は興味の尽きない話題の一つである。

歴史に興味のない方にはかなり退屈なブロ愚になってしまった。お疲れ様です・・・。