ヒトであることを忘れた人間たち | tadahiのブログ

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ヒトであることを忘れた人間たち

 

 群馬県の公園で逃げ出した四国犬に12人の人たちが噛まれ、怪我をしました。また、散歩していたトイプードルは、噛み殺されたようです。さらに、この犬には、法で義務付けられていた狂犬病の予防接種も一度もされていないということです。このようなことをしでかした犬は、よほどのことがない限り、殺処分になります。しかし、おかしな国民の多い日本では、いつものように、とんでもないことを、あたかもいい人ぶって主張する人が出てきます。四国犬の殺処分に、殺処分しないで、四国犬が可哀想、などのメッセージがXにポストされているようです。驚くのは、「殺処分とか平気で言ってるやついるけど、動物の命をなんだと思ってんの」というような、善人ぶったことを書く人もいることです。動物は人と対等でもなく、人に危害を加えることは、許されてもいません。人に危害を加えた時点で、人の社会での生存はできません。それが人社会の常識です。それを行き過ぎた動物愛護家と同じ考えを、正しいと思って発信していることに、狂気を感じます。

 このような、人の命よりも動物を優先する考えの人は、人の社会になれ過ぎて、人社会が提供しているものが当たりまえにあり、なんの苦労もなく授かっている意識もなく、あって当然のものだとの認識なのだと思います。便利であって当たりまえ、安全が当然、水は水道から出て当たり前え、と無自覚に思っている人たちだと思います。人の社会は、人のためにあり、人に危害を加えるものは、どんな生き物であっても、その社会での生存は許されません。これは、長い人の歴史の中で、普遍的に培われたきた常識です。その常識が通じなくなっている人、理解しようとしない人、いわゆる平和ボケのような人が増えていると思います。このように、理解できない人は、人社会の常識の必要性を、自ら体験しないと分からないのだと思います。

 その体験とは、熊の出没する環境で、一人で生きてみる。あるいは、熊と直接素手で対峙してみる。狂犬病の犬に襲われてみる、などの体験をしてみるといいと思います。そして、体験してみて、生き残っていた時に、もう一度意見を聞き、それでも「自分が襲われても、動物の命が大切」と言い張れるときに初めて、この人の意見に耳を傾けたいと思います。しかし、このような主観的な意見だけでは、本質は見えません。事故を起こした犬を生かしておく必然性は、怪我をした人にどう詫びるか、どうやって許してもらうかも考える必要があると思います。そして、飼い主がその責任を取れるとは思えません。

おかしなことを言う人は、自分がヒトという動物であることを忘れているか、実感がないか、ヒトとしての知識がないかということではないかと思います。ヒトは他の生き物(動物や植物)を犠牲にして生きています。食事だけでなく、環境も同じです。他の生き物を排斥し、利用し、殺して生きるのがヒトという生き物です。その基本を忘れているように感じます。基本的に、ヒトが人である限り、人の社会が存在する限り、殺処分は必要な処置だと思います。「殺処分とか平気で言ってるやついるけど、動物の命をなんだと思ってんの」と胸を張って言えるのは、人が生き物から脱却し、魂だけの存在となった時だと思います。