論点を恣意的に変えて反論するのは | tadahiのブログ

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論点を恣意的に変えて反論するのは

 

左派系の人たちは、批判されると、必ず論点を恣意的に変えて反論してきます。また、すぐに裁判を匂わせるのも特徴です。そして、その特徴は、活動家の特徴でもあります。

活動家は、自分の都合で法に従ったり、法を無視したりします。法の遵守という考えは、全くなく、自分が法であり、全て正しいのが自分だという考えの人たちだと思います。正義のためという理由がつけば、すべてのことが許されると考えるのが活動家の特徴です。従って、論点ずらしなど当たり前の手法であり、詭弁どころか屁理屈さえ躊躇うことなく正当化してしまいます。このような観点で見みて当てはまってしまう反論をしている集団があります。れいわ新撰組の信者たちです。

「救助活動に支障があるから、個人では能登に来ないで」という要請に対して、「今来るな、都合ついたら助けろとか都合良いことぬかすなよ。山本太郎が折角ボランティアに行ってくれてるのに邪魔者扱いするなら他所の人間一切呼ぶな。自衛隊も帰らせろ。全部石川県民だけの自分たちで解決しろ。」と信者が反論しています。この反論のどこがおかしいかと言えば、山本太郎さんの救助活動は誰のために行なっているのかということです。 誰が考えても、避難民ということになります。個人のボランティアが来ると、本来の大規模な救助活動の妨げになるので、来ないでと言っています。つまり、避難民のために山本太郎のような個人に来ないように要請しています。それに対して、「避難民の都合で助けろとかいうな、山本太郎がせっかく助けると言っているのだから、ありがたく助けてもらえ、山本太郎を受け入れないなら、自衛隊も入れるな」と言っています。もう少し意訳すると「ありがたい山本太郎様が自ら助けに行っているのだから、黙って言うことを聞け。山本太郎様を受け入れないなら、全て受け入れるな」と信者が怒っているということのようです。もはや宗教であり、宗教的施しの押し売りです。活動家というよりも宣教活動に近いかもしれません。この人はさらに「山本太郎は何百回も炊き出しをやってるプロだバカが。現場経験が少ない自衛隊のがよっぽど素人だわ。」とも言っています。ここまで来ると、山本太郎の奇跡を伝えている宣教師だと確信します。

さらにこんな信者の声も聞こえてきます。「山本太郎さんがカレー食ったとか、売名だとか叩いてる暇なネトウヨは、この国民民主党の玉木雄一郎を火だるまにしてみろ。出来ないだろう!子どもの為の、子ども食堂でわざわざカレー食ってるどこぞの党首だ。どっちが愚か者か? 」というものですが、普通の人は、「山本太郎の方が愚か者だ」と答えるでしょう。山本太郎さんが批判を受けているのは、被災地でカレーを食べているからだけではありません。個人的に来ることで、計画的な援助活動に支障が出るから、控えて欲しいという現場の要請を無視して被災地に行き、勝手な行動をして、そこでカレーをたべたというエピソードを流すという、一連の無神経さが批判されているのであり、カレーはその象徴的なものに過ぎません。この活動家は、批判の真の内容をかわすために「カレー」に論点をずらし、政治家としてのパフォーマンス行動への批判を逸らそうとしています。

玉木さんのカレーとは、状況が全く違うのに、カレーだけに注目させ、論点をずらすことで、批判をかわそうとしています。さらに、福島の地震の時の安倍元総理が食べたカレーまで持ち出してきます。これも、カレーを食べた時の状況が全く違うのに、「カレーを食べた」という一点に視点を置いて、論点ずらしをしています。

山本太郎さん批判の問題点は、初期救助の大切な時に、勝手な行動をする個人が、大きな救助活動を邪魔するという点です。山本太郎さんも所詮は個人でしかありません。今の時期に、個人で活動することに対しての批判であり、カレーを食べたことへの批判ではありません。そして、れいわ信者たちは、一人もこの問題点に言及していません。NGOの要請だとと言っていますが、どこのNGOなのでしょか。被災県の知事の要請を無視するNGOなど、今後、国から補助するべきではないと思います。このNGOは、厳しく追求されるべきだと思います。

政治家は無関係であり、現場を見ないと適切な判断ができないというのであれば、自分は無能だと宣言していることになります。また、自分でいいと思ったことは、要請を無視しても正義だと信じる党首とその信者たちの行動は、政治家ではなく活動家に通じるものがあると思います。今回の騒動もまた、れいわ新選組は、政治集団ではなく、活動家集団か宗教集団に近い存在だと思わせることになりそうです。