我々は宗教や政治というものをわかっていない。 | Tempo rubato

Tempo rubato

アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

 


人気ブログランキング 

 

『劇場版 呪術廻戦 0』応援ありがとうございました!

第二期も制作決定。2023年放送開始です。詳細は後日!

 

 

 

岡田麿里監督作品『アリスとテレスのまぼろし工場』

副監督で参加しています。

 

 

お楽しみに!

 

平松禎史 アニメーション画集 平松禎史 アニメーション画集                          

 

Amazon

                                                       

平松禎史 SketchBook 平松禎史 SketchBook                          

 

                         

Amazon

 

 

===========================================

 

 

ボクは政治経済を、思想や文化、社会心理の面で見る方に興味があります。

 

そのためには歴史や経済統計や理論を知っておかないといけない。データを観察するのは一般人にも楽な時代になっているし、歴史や理論も本だけでなくネットでも(論文や本格的な考察が)参照できるようになっています。

その上で、数値にあらわれにくい思想や文化、社会心理を考察していく。つまり、社会を方向づけている物語は何なのか、考えるわけです。

 

アニメーションで物語を作るときと逆をやるわけですね。

物語づくりでは、物語を方向づけるテーマが決められ、そのテーマに合致する舞台や人物や事柄などが配置されていく。

現実にはひとつの方向へ導く物語などというものはありません。架空の物語づくりのように自分に都合良く現実を物語れば、それは陰謀論になっていきます。

そうなるのを防ぐため「非個人化」または「脱個人化」をする。そのために必要なのが歴史の経緯や精査された理論や統計データなのです。

 

「客観的な視点」と言われることもありますが、ボクはとらない。

「客観的な視点」では、主観と客観を分離し、自分を出来事の外(客観)に置いて観察することになる。出来事に自分が含まれていない、あるいは自分を出来事から外に出そうとする意識がはたらきかねないからです。ネットの言説にはそこを認識できていないものが散見されます。

自分も出来事のうちに含まれて共に生きており、その自分を距離をおいて観察すること。それが「非個人化」であったり「脱個人化」の意識です。河合隼雄さんの受け売りですね。

 

 

さて

主に自民党と維新の会につながりが深かった統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題。

BAST TIMESに中田考氏の興味深い論考があったので引用しましょう。

 

前編。

 

引用部の前に長めに書かれている日本の宗教受容史は重要なので、飛ばさずに読むことをおすすめします。

古くは道鏡の天皇への接近と失脚も付け加えたほうが良いかもですね。

また、《250年にわたる「徳川の平和」の時代に完成した政治優位の多宗教共存体制》の前史には、白村江の戦いに破れて唐の支配を恐れながら、唐の制度(天皇・法・戸籍・文字と文語)を積極的に輸入した7世紀末から8世紀前半の治世があったことも加えるべきでしょうね。敵であったはずの唐の制度さえ、中央集権体制を作りたい政治の都合でどんどん取り入れていったのです。

 

簡単に書くと、日本では政治の都合が優先して多神教的に宗教を受容しており(受容できる性質が日本の国土や気候条件下で一般の人々にも整っていた)、宗教は世間の潤滑剤として穏当に存在する程度なら問題視しない意識が、歴史的な経路として根底にある。

「政治の都合」は実際に政治を司る一部の人々に特化したものではなく、地域共同体や会社や仲間のような単位であっても同様に存在するものだと考えるべきでしょう。

そのような歴史的経路を踏まえた上で

身も蓋もない言い方をすれば、安倍は選挙における集票マシーンとして統一教会の政治的利用価値だけを考えていたのでしょう。奇しくも安倍暗殺と時を同じくして30年ぶりにその指導者が来日していた、見るからに「ヤバい」その分派「サンクチュアリー」の存在も含めて、宗教としてのその信者たちの「本気(ガチ)度」、活動の「危険性」、信者の親族たちへの「迷惑」を過小評価していた、要するに統一教会を「ナメて」いたために、白昼にSPの護衛の前で統一教会を恨む二世信者に殺される羽目に陥った、ということです。

 

そして中田氏は、前編の論考をこう締めくくります。

ですから安倍暗殺の本当の問題は、統一教会のような「カルト教団」との交際を隠さなかった政治家としての「脇の甘さ」、「節操の無さ」といった個人的な資質ではありません。

 つまり形而上学やイデオロギーを含む宗教的なものの理念を見下し、その「純粋な」信徒を常識的な現世の利害考量で生きる人々(世間)の「空気」を読まない「異物」とみなし、世間の我慢の限界を超えて目障りになるか、武力よる体制転覆を公然と企てでもしない限り、「臭い物に蓋をする」ように見て見ぬふりをする庶民から、政治家、ジャーナリスト、研究者にまで共通するマインドセットこそが真の問題なのです。

 

オウム真理教の一連の事件で、すでに示されたことですね。

 

「マインドセット」とは

ある人や集団の中で確立している思考様式、態度、価値観などのこと。(大辞林第三版)

 

中田氏が指摘する日本人の「臭いものに蓋をする」マインドセットは、何か(大規模な自然災害や感染症など)が起こらないと動かない日本人の、そして過ぎ去ると忘れてしまう日本人の性質とも合致します。

さらに、どうにもできないほど厄介な問題になると、過ぎ去ったことにして忘れる…「なかったことにする」心理が支配的になる性質も示唆してますね。新型コロナ状況はすでにこの段階にありますが、振り返ればアメリカの属国状態なことも同じ意識構造でもって「なかったことに」し、曖昧に受け入れています。自衛隊に拒否反応を示し米軍にも出て行けと言っている日本共産党の論理は、日本の国防という厄介な問題を「なかったこと」にしていませんか。

 

 

後編です。

例によって1ページ目は論考の前提を整える議論です。統一教会の特徴は、他者の解説とも合致しているので中田氏独断の見解ではありません。

その上で中田氏は、政治学者の上久保誠人氏が統一教会を宗教のひとつと認識して問題を切り離し、過度なバッシングは慎むべきとしていることに、懸念を表明します。

 

しかし上久保は、統一教会が自民党に癒着していながらも政権党である自民党に影響を及ぼしてその政治綱領を国政に全く反映させることができていないことをもって、統一教会の政治的影響を否定し、あくまでも信徒とその家族への被害の救済だけにしか着目していません。つまり統一教会が「純粋な」信仰に基づく「原理主義的な」教団であって、日本人の心性に合わせて戦略的に日本の支部を集金マシーン化して得た資金で、アメリカの政治に影響を及ぼし、それによって間接的にアメリカの属国である日本にも政治的に大きな影響を与えている点に言及していないことで、上久保には国際情勢における日本の統一教会の役割への視点が欠落しているのは問題です。そしてそれは日本人の宗教観のマインドセットの呪縛によるものだと私は考えています。

 

サンジャポで太田光氏は、宗教を取り締まることは政治が宗教に介入することになる。ある宗教を信じてお布施をすること自体は悪いことじゃないはず。などと発言したらしい。統一教会に限らず、寄付を募る宗教はいくらでもあるし、宗教じゃなくても、それこそ現代のクラウドファンディングにしても似たようなものです。問題は、統一教会がどんな団体なのか薄々知っていて、あるいは組織の慣習に従って関係を持ち選挙等に利用し、統一教会の広告塔に利用されていたこと、なんですよ。

 

統一教会がアメリカの関係機関に影響を与える工作をしていた事実は、1978年のフレイザー委員会の報告書で明らかにされています。

なおこの時、統一教会はフレイザー委員会に損害賠償請求をして調査妨害をしています。現在マスメディアにやっていることと同じなので、性質は変わっていないと見るべきでしょう。

 

「マインドセットの呪縛」に話を戻しましょう。

アメリカの属国状態なことがわからない、改革政治が破壊した良き日本的なものがわからない、「税が財源である」が間違った経済通念だとわからない、いつか巨大地震が来ると言いつつ防災減災への備えが不十分なことがわからない、コロナ禍や原油価格や戦争による価格上昇の被害を「消費減税・廃止」で改善できることがわからない。

これらすべてにおいて、「臭いものに蓋をして」わからないふりをしてることを、わかっていない。安倍氏殺害事件の背景とその後の反応に直接・間接的につながっている。

 

福田達夫総務会長の「何が問題かわからない」に表れた「認識力の消失」です。

問題の所在を(本人なりの倫理で)そらしている太田光氏にしても同様でしょう。

 

 

「認識力の消失」とは、中野剛志さんが新刊『奇跡の社会科学』(文末にAmazonのリンクを張ってあります)の前半で書いている「官僚制度の弊害」と通じます。官僚制度は物事を合理的効率的にすすめるには良い制度だが、合理化効率化が目的に置換すれば弊害となる。何が目的なのか認識できなくなるわけで、「認識力の消失」とは「人間性の消失」と言えます。

 

そもそも欧米では、宗教は法や政治の上(前)にあるものです。

アメリカにおける「政教分離」は「政治と宗教の分離」ではなく、特定の宗教によって国を分断することが禁止なのです。なので、議会で聖書に手を当てて宣誓するのはひとりの人間としての約束と言えるでしょう。欧州では国によって異なりますが、ドイツにはキリスト教を根源にした政党が存在する。フランスの「ライシテ」は信教の自由を保証するために宗教的中立性を規定するもので、政治への宗教的影響を排除している。さすがは市民革命の国、政治から排除してるんですから最も厳しい国ですね。

日本の常識観と異なるだけでなく多数の被害を出している統一教会が政権与党に取り入る行為は、アメリカの基準でもドイツの基準でもフランスの基準でも、違法と言えるでしょう。これを漫然と許した自民党の行為も違法です。

あんなもの、取り締まらない方が信教の自由を阻害するのだ。それが宗教とつながりがりの深い国々の常識、と言えるでしょう。

 

そして中田氏は、最後にこう締めくくります。

しかしアメリカの覇権の不可逆な長期凋落傾向は明白であり、一方で現行の欧米に有利な、不正な「国際秩序」の再編を目指す中国・ロシアが新たな「帝国」として台頭しつつあることで、人類は先行きが見通せない混迷の時代を迎えつつあります。そうした状況下で、過去の成功体験に「居付き」、既得権にいたずらにしがみついていては、時代の趨勢を見誤り、没落を早めることにもなりかねません。そうならないためにも、我々はここで一度立ち止まって、日本的な宗教理解のマインドセットと欧米のリベラルな世俗主義を相対化し考え直してみる必要があると筆者は信じています。》(読みやすくするために読点をひとつ追加。読点を中黒に変更しています。)

 

イスラーム法学者らしい締めくくりになっています。

過去何度も書いてるの割愛しますが、高度経済成長とアメリカ同盟国の座という成功体験、そのものの本質をわかっていないのです。

ひとつ訂正を求めたいのは、日本はとっくに没落してるってことですね。「没落を深める」ならその通りです。

 

 

ボクとしてはこんな風に整理しています。

日本人は欧米や中東の人々のような宗教観を持っていない。

歴史的に日本は、宗教的な主導権争いが権力者の内部抗争にとどまって国の形を決するような宗教戦争は一度もなく、天皇は権力を持たない曖昧な権威として平安時代から象徴化が進み「中空」を中心に据えた制度と化し、各時代の政治家は「中空」な権威を便利に使ってきた。その結果、一般庶民は政治から距離をおき、宗教は慣習や生活の知恵として生きることができたが、何が日本を形作る根本なのか認識しないまま近代国家になった。第二次世界大戦の敗北によって、この(無)認識構造はますます強くなり、政治に関わることは悪なのだと強化。中身のない政治家には好都合な環境が整った。

中田考氏の考察に、河合隼雄氏、今谷明氏、三浦佑之氏などの考察が(それぞれ別々な論点ながら)重なり合います。

 

 

宗教性が強まるほど嫌悪して排除しようとする日本人の意識は、政治性が強まるほど嫌悪して排除しようとする意識と同一線上になっているのです。

そして政治家は、国民が政治を嫌悪して見ないようにする意識を(無意識に)悪用して政治をおこなってきた、というわけです。

 

ボクが政治経済の発言をしているのは

一般庶民が政治的なものを嫌悪して関わらないようにしてるのを悪用して、政治家が失敗しても責任をとらずにやり放題をつづけているのが、許せないからです。

 

かといって、日本人も欧米みたいな大規模デモをするよう意識改革するべきだなんて言いません。嫌です。政治に不慣れな日本人がそんな変革をやれば、それこそ山上容疑者が大量発生するでしょう…。

 

せめて

我々は宗教や政治といったものを根本的にわかっていない

ということを知ることです。

欧米などから学ぶにしても、日本人とはどういうものか知ろうとしなければならないのです。

 

宗教を重視している中田氏の論考で日本人は、宗教の本質が理解できないで場当たり的に生きている人々なのだと、ネガティブに読んでしまう人がいるかもしれません。しかし、日本人はそういう人々なのですよ。欧米や一神教的な思想による理性や合理性、科学的思考を基準としない。そのような基準を打ち破る自然災害と付き合ってきたために、場当たりで培われた慣習や常識を重視するようになった人々なのだと思うのです。良し悪しではなくね。

 

 

難しい話ですね。

もっとシンプルに、プラグマティックに

「政治家は結果が良ければ高評価。悪ければ責任をとって辞めよ」と。

そこからはじめたらどうでしょう。

良い結果を出せない政治家には民主的に退場してもらうべきです。

そうしないと、生活の安定や将来への希望など得る条件が整いません。

政治を暴力で変えるような社会にしてはいけないのです。

 

政治における「結果」の定義は、所得上昇・社会保障充実・経済成長率の上昇・自然災害の被害を想定より小さくできた…などでかまわないでしょう。そこから先は我々一般庶民が作っていけばよいのです。

歴史の事実に従えば、政府支出を増やさないでこれらを実現するのは不可能ですけどね。

一般庶民が関心を持たねば結果を正しく評価できません。

 

「政治は結果がすべて」と言ったのは安倍元総理です。元総理を継承する気があるなら、悪い結果しか出せなかった政治家は辞めるべきです。

 

岸田内閣ですか?

全員辞職が妥当でしょう。

遡及適用は酷ですが、現内閣や与党に限定せず、次の内閣にも「結果が悪ければ辞めてもらう」を最低限の基準にしましょうよ。今の野党だってこれに従うのです。

当たり前でしょう。そのために選挙制度があるのです。

その選挙を歪めた統一教会と自民党の罪がいかに重いか、という話です。

 

 

 

===================

 

なるほど… と思われた皆さんクリックお願いします。

 


人気ブログランキング

 

…………………………………………………

 

オススメの参考資料

 

NEW!

 

 

 

佐藤健志著

 

 

 

中野剛志著

 

1,604円

 

 


 

河合隼雄著