『さよならの朝に約束の花をかざろう』 http://sayoasa.jp/
岡田麿里監督 P.A.WORKS制作の長編アニメーション映画。
ボクはコア・ディレクター/作画監督で参加しています。
2月24日より上映中。
現在 23劇場で上映中!
劇場情報(5月2日更新)をチェックしておいでくださいね。
海外でも上映がはじまります。
北米を拠点とするELEVEN ARTSさんのツイートによれば、7月20日から公開予定。
https://twitter.com/ELEVEN_ARTS/status/983819936555401216
P.A.WORKS発刊『さよならの朝に約束の花をかざろう』関連書籍も続々発売。
キャラクター原案岡田有章さんや石井百合子さんの設定画、吉田明彦さんのコンセプトデザインなど網羅した設定資料集!
美術監督東地和生さんや美術スタッフの濃密な仕事が詰まった美術画集!
メインアニメーター井上俊之さんの原画集(上中下3巻)も発売予定!
http://paworksshop.jp/shopbrand/ct36/
最新予告「巡り合う世界篇」
…………………………………………………………………………………………………………………
『さよならの朝に約束の花をかざろう』、公開から2ヶ月半が経ちました。
上映終了した劇場が増えていますが、まだ続けてくださっているところや、これからはじまるところもあります。
映画を観た飲み友たちから感想を聞くと、2度3度と観に来ているお客さんが話をしているのをよく見かけたそうです。
本当にありがとうございます。
さて
今回は、演出をする時に気をつけていることなど書いてみましょう。
先日、映画関連のブログなど読んでたら、ヒッチコックについて書かれた興味深いブログを見つけました。
アニメの素晴らしいところは何も考えていない人物を絵として出せるところ(塩田明彦『映画術』)
http://sandletter.hatenablog.com/entry/2014/03/22/204631
《木下惠介監督は、「ちょっと空を向いてるところを撮りたいんで、やってみて」って言って、役者には「何も考えなくていいから」と指導します。でもこれ、普通の役者じゃ無理ですよ。この人物は過去にどういうことがあって、今どういう心境で、なぜ空を見ることになったのか、考えないと(物語を作らないと)演技できない。
しょうがないので、なるべく何も考えないようにして空を向く演技をやって、あとからできた映画を見てみると、ちゃんとそれが「監督の作った物語」の中で意味を持ってくる。》
(重要と思える箇所に着色。以下同じ)
ヒッチコックの最終作『ファミリー・プロット』で主演したブルース・ダーンは、当初ヒッチコックの演出に戸惑ったそうだ。
ここからここまで歩いて、と指示されるだけで、どういう気持でどんな顔をすれば良いのかわからない。質問しても、ただ歩いてくれば良いんだよと言うだけだ。
それで編集済みのフィルムを見ると、自分がその場面に適切な芝居をしているのに驚いた、と。
上記ブログでは、アニメの場合、このように何も表現していない顔、というものを作りやすいのだと書かれています。
アニメキャラクターの空虚さを示唆されてるようでもありますが…
ただ、そのキャラクターが物語を感じさせてくれるよう描き出すには演出が重要です。
演出家が人物の過去や心境や動機をきちんと理解できていなければ(事実を観察できていなければ)適切な演出はできず、本当に何も考えていない人物になってしまうでしょう。
アニメ映画にこそ高い演出力が必要だ、とも言えますね。
続いて『引き裂かれたカーテン』について。
少し長いですが、ヒッチコック/トリュフォー『映画術』から引用しているところを書き出してみます。
ヒッチコックは役者に考える演技をさせない人でした(引き裂かれたカーテン)
(同上)
http://sandletter.hatenablog.com/entry/2014/06/03/233221
《『わたしの気に入らなったのは、ポール・ニューマンの演技だ。きみも知ってのとおり、ポール・ニューマンはアクターズ・ステュディオ出身の俳優だ。何も表現していない、いわば中性のまなざしが、わたしには、シーンを編集するために絶対必要だったが、ニューマンはそんな、何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった。工場のシーンで、ポール・ニューマンは(グロメクを殺した直後に)グロメクの兄に会う。そのとき、彼はグロメクの兄のほうに、単純に無意味に目をやることができず、アクターズ・ステュディオ方式で、例のごとく顔をちょっとそむけながら、思いいれたっぷりに演技してみせた。編集でなんとかそこは手直しできたけれども、結局シーン全体をカットしてしまった。』》(『映画術』p323-324の部分)
これは冷戦時代のスパイサスペンス映画です。
グロメクとは、旧ソ連を思わせる東側国家の監視役で、ポール・ニューマン演じる主人公マイケル・アームストロングを追跡して来る。マイケルが西側(アメリカ側)のスパイから情報を得た現場を発見され詰問され、格闘の末、マイケルはグロメクを殺してしまう。
使命を帯びているとはいえ、人殺しをしたのでは観客はマイケルに感情移入しにくくなる。
実際直接手を下したのはスパイの妻で、マイケルは巻き込まれた感じになっています。
上記引用部分の主旨は、そのグロメクの兄と会うことになった時、マイケルには表面上平静を装っているように見せる必要があった、というわけです。
彼が平静を保つのに(内心で)苦慮している様は、カット割り(編集)で見せ、観客に「内心 罪の意識に苛まれている」と感じとる(感情移入する)ことが、この場面のキモになるはずだった。なので、ポール・ニューマンが罪の意識を思い入れたっぷりに(説明的に)芝居をしたのでは台無しなのだ。この場面を削除したのは尺(上映時間)の都合もあったようですが、意図しない伝わり方になるのを避けたのでしょう。
また、ヒッチコックはこうも言っています。
グロメクの兄は弟と同じ役者が演じているのですが、髭をつけ、メガネをかけて一見別人のようにした。てっきり瓜二つの人物が表れると思っていたセットのスタッフたちは「似てないじゃないですか!」と言ってきた。
ヒッチコックは《そっくりにしてしまったらお客は ”なんだ同じ男じゃないか!”と言うに決まってるんだ。」こうした決まりきったパターンで映画を見る人間がいかに多いかということだ。》と。
こうした決まりきったパターンでものを見る姿勢をヒッチコックはとても嫌います。
決まりきったパターンとは、外形的なわかりやすさ、ですね。
「らしさ」とか「首尾一貫性」とかばかり気にかける姿勢を批判している。
ボクが演出をする上で最も影響を受けているのはこういうところです。
想像力を欠く説明的な演出や、場面の整合性(首尾一貫性)に気を取られて表現がこじんまりしてしまうこと。
観客に情報を与える(説明する)のではなく、観客を映画に参加させることが演出のキモです。
(ボクもアニメータですが…)アニメーターの悪い癖は、担当パートだけを見て、そこを100点にしようとするところです。
演出の立場では、全体を通して100点になるよう考えます。
なので、場面によっては60点が100点になる。
非常に腕の良いアニメータであっても、自分の担当パートを100点にしようとして絵コンテが求める以上のことをやろうとすることがある。
せっかく描いてくれたのだから…と通してしまうと、全体が歪になってしまうので、「ごめんなさい」と、良いところだけ使わせてもらって他は抜きます(使わない)。
ポール・ニューマンがどんなに思い入れのある芝居をしたとしても、全体の構成上いらない芝居なら編集で削除しなければならないのと同じです。
その方が結果的には作画を活かすことになると思う。
とはいえ
絵コンテ以上の芝居を盛り込んでくれるアニメーターは非常に少なくなっているけども…。
「役者に考える演技をさせない」とは、映画全体の物語を統括しているのは監督だからです。
役者を軽視するわけではありませんが、ある登場人物の表現に全力を傾けるのが役者ですが、すべての役者がそう考えて前に出てしまうと、経済で言う合成の誤謬と同じ現象が起き、全体として何を表現してるのかわからなくなってしまう。
ですから、監督が差配する必要がある。それが演出です。
編集のある映像演出では、役者が現場で登場人物を演じる時間感覚と出来上がりは異なります。
舞台劇と映画の違いですが、役者が微動だにしなくても、カメラの切り取り方と編集でその内面が激しく動いている様を表現することができます。それが演出です。
トリュフォーは、『映画術』の「序 ヒッチコック式サスペンス学入門」で大変熱っぽくヒッチコックという映画作家について、こう書いています。
《イメージに描かれたものと言葉(セリフ)に発音されたもののずれの原理にもとづく数々の表現の試みをおこないつつ、第一のシチュエーション〔外側の事実〕と第二のシチュエーション〔内奥の真実〕を同時に描くことによって真に視覚的にしかありえないドラマチックな効果を獲得しようと絶えず努めてきたのである。こうして、アルフレッド・ヒッチコックは、疑惑とか嫉妬とか欲望とか羨望とかいった諸々の感情を、そのものずばり、ということは説明的な台詞などにまったくたよらずに、描き得る唯一の映画作家となって今日に至っているというのが、ほんとうのところだ。》
セリフで言わず表情にも出さず、どうやって感情を伝えるのだ??…と思うでしょうか。
それができるのが映画であって、「真に視覚的にしかありえない」映像表現なのです。
だからといって、ヒッチコックがセリフを軽視していたわけではありません。
気の利いたセリフは映画を豊かにします。
それでも、最終的には映像が主役になる。
映画が、舞台劇と決定的に違うのは、編集でショットを積み重ねた時間を伴う映像であること。
再生されている時間と映画の中の時間が異なることも大きな特徴です。
アニメの場合で言えば、漫画との違いがそれです。
セリフやコマ割りを忠実に再現すれば、すなわち「原作に忠実」ということにはなりません。
アニメ作品も(テレビシリーズだとしても)映画ですから、映画としての表現がなくてはつまらないと思う。
映画としての表現とは何か、ということを端的に表現したのが、上記トリュフォーのヒッチコック評なのだと思う。
さらに突っ込んで読めば、「外側の事実」と「内奥の真実」とは何か?です。
これが掴めていなければ演出はできません。作画にしても同じですけどね。
トリュフォーが例にしている疑惑とか嫉妬とか欲望とか羨望とかいった感情(内奥の真実)は、喜びや怒りや悲しみに置き換えても同じです。
人間は、そうそう感情をそのまま表に出すものでありませんから、あからさまに出されたことばや表情は嘘くさいと感じるでしょう。
ことばのやり取りの中、他の登場人物が気づかないその人の一瞬の視線の動きやちょっとした仕草にその人の感情(内奥の真実)を見つけられた時、何倍もその人に近づいたような気持ちになるのではないでしょうか。
それが様々な感動につながっていく。
映画は、セリフに頼らず、カメラの切り取り方や編集によって「内奥の真実」を描き出すことができますが、それを可能にするには、現実の表裏を観察できていなければいけません。
演出であれ作画であれ、観客と同じ視線で同じようにものを見ていてはいけないのです。
外形的なことばの刺激やわかりやすい表現にたやすく納得してはいけない。
埋もれた「宝物」を先に見つけられる人にならないと、ね。
「さあ、どうやって見つけようか。」
演出や作画を志す人には、これが人一倍楽しめるよう観察力を磨いていただきたい。
べつに、世間的に立派なものを見つけなくても良いんです。
あなたにとっての「宝物」であれば良い。
どれだけ観察しても、いつまで探しても「これだ!」というものが見つけられない。
どれだけ描いても満足できない。
そう思えたら一生の仕事にできますよ。
…………………………………………………………………………………………………………………
平松禎史 アニメーション画集
Amazon |
平松禎史 SketchBook
Amazon |