「歩き」考 | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

前回のブログでは「哲学」的な思考からヒントを貰って、アニメの内側でなく外側の世界へ認識を広げる必要性を書いてみました。

ついでに書くとアニメはイタリア語の音楽用語(con anime または con anima)で「活き活きと」になります。
機械翻訳にかけると「魂を持つ」と出ます。
*音楽用語でも、正しくは「魂をもって」です。「生き生きと」は魂や心を込める意味からの派生で、そう訳すのは間違いでした。

アニメは魂を意味するラテン語から生まれていて、そこから静止している絵や物体が魂を持っているかのように動く映像をanimationと言うようになったのですね。

今回は具体的な話。
アニメーターになって最初の頃に習う「歩き」について考えみます。

奥が深い「歩き」
奥が深い、と言ったらどんな動きだって奥が深いのですが。

基本的な動きとして教わる「歩き」は、マニュアル化されいるのでその深さに気が付かない場合があります。
簡単な説明図を書いてみたので見て下さい。



横位置の歩きで足の運びとツメ指示(動き幅に対する位置の指定)です。
右側にあるのは正面から見た時の身体の揺れです。(後述)

皆さんはどう教わってますか?
ボクの時代ではツメ指示は(B)と教わりました。

つまり、両足が地面に着いているポーズが原画として描かれているので、その間を「原画ヅメ」または「両端ヅメ」という割り方で割るように教わりました。
これだと、両足が着いているポーズで動きに「タメ」ができます。

最初はその通りにやってたんですが。
自分で歩いてみて足の動きを研究しているうちに「おかしいな」と気が付きました。

どうやっても原画のポーズで「タメ」が出来ない。
むしろ真ん中の中割のポーズで「タメ」が出来てしまいます。

なぜだ!?

ゆ~~~っくり歩いてみると、いわゆる「中割のポーズ」で静止することが出来ます。
両足が着いた「原画のポーズ」で止まろうとすると不安定で、前に出した足に体重を載せたくなります。
両足の着いた「原画のポーズ」は最も不安定で早く通過しようとするポーズになります。
片足立ちの「中割のポーズ」はそのまま止まることが出来て、もう片方足を下ろせば立ち止まれます。
立ち止まる時の動きを考えてみれば当然のことで、「原画のポーズ」を基本形として固執するべきではないのです。

結果、より自然なのは(B)だとわかりました。
とはいえ、本当の歩きはほとんど「タメ」はありませんけどね。

表現としての「歩き」
原画になってからは、「原画のポーズ」を基本に考えてしまうと仕草が不自然になってしまうことが多いことにも気が付きました。

向きを変える時にどう動いているか思い出してみてください。
両足が着いた「原画のポーズ」ではなく、片足立ちの「中割のポーズ」を中心に向きを変えていませんか?
「原画のポーズ」から次の「原画のポーズ」で方向転換させようとすると、中割で不自然になってしまいます。
向きを変える時には、必ず、中割位置を原画にして向きを変えるポーズを描く必要が出てきます。

この時の前後3枚程のポーズ、重心の取り方、全身の柔らかさ、顔の向きなどなどが総合的に噛み合っていないと、歩きながら向きを変える動きが自然になりません。

人物が自らの意志で歩く向きを変えた、という表現にするにはマニュアル的な認識で動かしてしまったのでは感じがでません。

歩きは、人物の状況によっても変わってきますよ。
何気なく(通勤通学のような慣れた感じで)歩いているのか。
目的意識を持って向かっているのか。
目的もなくぼんやり歩いているのか。
急いでいる?
何かを振り切ろうと?
泣きながら?
笑いながら?
誰かと一緒に?
男か女か?
大人か子供か?老人か?
無限のバリエージョンがありますね~。楽しいですね~♪

これを、マニュアルに従って「こう描いとけば歩くだろう」などとやってしまってはもったいなさ過ぎます。

…ただ、これはアニメーターというよりは、それ以前に演出家の表現力の問題かもしれないけどね。
場面移動の歩きは割愛されることが多いですからね。

場所から場所への移動中、どこにも居ない時の心理を上手く表現できれば情感の豊かな場面が作れそうです。

正面の横揺れはおまけですが、このように「∞」の字状に動かすと体重移動が自然になります。
リアルめなキャラクターなら「∩」の字状より自然。
図はわかりやすいように揺れ幅を大げさに描いてます。

首から上のクローズアップの歩きなら3k打ちで「∞」の字にローリング目盛をつけて髪揺れを少し(遅れ気味に)つければ作画でやるよりキレイに歩きます。
台詞や表情芝居がある時に有効ですよ。
ちなみに横顔のローリングでも「∞」の字を縦に引伸した目盛をつけるとそれっぽくなります。


さて、こういったことは、「何を描きたいか」がまずあって、「どう使うか」が決まってきます。
方法論であって目的ではないことにご注意下さい。

そして、「何を描きたいか」を感じ取るには、アニメをどう考えるのか?にかかってきます。

そこで、アニメ世界に閉じるのではなく、外の世界に目を向けて、そこから感じ取ったものをアニメの表現に落としこむ、という一連の「心の動き」がまず起こることが大事なのだろうと思います。

そうすれば、必ずや、教わったことや、誰かの真似で描いていた方法では表現しきれなくなります。
モヤモヤします。
どうして描きたいもの(動き)が描けないんだ!?と悩みます。

苦しい!!

さぁ、楽しくなるのはそこからです。