土曜日。天気がよかったのでトュイルリー公園(Jardin des Tuileries)に行き、日光浴をしながらのんびりと読書。目の前には広がるのはルーブル美術館と美しい花々。いかにもパリ!といった感じの午後。
夕方からはクリシー広場(Place de Clichy)に行き、中華料理の総菜屋で食事。チャーハン、鳥の軟骨のから揚げ、豚肉の炒め物と白身魚の甘辛煮をそれぞれ100グラムずつ、それにハイネケンの350ミリ缶をつけて、あわせて9ユーロ弱(1300円くらい)。夕食にしては安い。
フランスに来てからはじめてビールを飲む。チャーハンをひとくち食べて、ビールをぐびっと飲み干したときには感動のあまり泣いてしまうかと思った。米を食しながらビールを飲むというのは、これはもう何ものにも代えがたい幸せ。いや~、ウマかった!
さいきん読んでいる本について。ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)の『Ce que parler veut dire』(Fayard, 2005)と、セルジュ・アンドレ(Serge Andre)の『L’epreuve d’Antonin Artaud et l’experience de la psychanalyse』(Ed. Luc Pire, 2007)を読んでいる。
前者について。副題の「L’economie des echanges linguistiques」が示しているように、ディスクール分析の観点から言語活動について考えていきましょう、といったスタンスの本。前半部分では、Austinのenonces performatifsを参照しつつ、言語活動における政治的側面の大きさが説明されている。つまりある言説が所有する力は、その内容のみならず、それを誰が、どのような状況において、誰に対して発するか、といった要素にも大きく左右されるのだよ、ということ。例えばまったく同じことでも、それを小学生が言うのと大学教授が言うのとでは、説得力がまるで違ってくるように。
ただ、この本が面白くなってくるのは後半部分、とくに検閲(censure)について語られるあたりから。Bourdieuは、ある特定の専門家集団の内部で発せられる言説を、interet expressif(表現しようという欲得)と、その集団が押し付けるcensure(検閲)との妥協の産物として特徴づける。例えば、ある学者が自分の論文を学会誌に発表しようとする場合について考えてみる。彼の論文は、彼が所属する学会が暗黙のうちに共有する規定(用語の使用法や言い回し)に則ったものでなければ公表を認められることはないだろう。言い換えるならばその学者は、論文を書いている時点ですでに、学会が共有する形式から逸脱することがないようにみずからを検閲しているのである。そして、欲動と検閲とが生み出すこのような政治的せめぎ合いの特殊な例としてフロイトの精神分析も位置づけられるのではないか、というのがBourdieuの主張。
残りはまた次回。