日中戦争で毛沢東率いる中国共産党軍は日本軍と戦っていないというのは大嘘である。

 まず、蒋介石率いる中国国民党軍は数は多いものの非常に質の低い軍隊で、兵士は一般人を拉致して集め、ロクな訓練もされず前線に出され、逃亡防止の為陣地に鎖で繋がれたり後方から督戦隊に見張られたりしながら戦い、兵士への給与や食糧支給は不十分で、民間人(もちろん自国民)から略奪やレイプをするコトが兵士の特権とされ、敵前逃亡や装備の横流しは日常茶飯事という有り様であった。このような状態では日本軍相手にいくら戦っても負けてばかりで、アメリカの軍事顧問ジョセフ・スティルウェルは、中国軍を連合国の指導下においた方が得策だと考え、自身の元に数個師団を置いてアメリカ式訓練を行わせ、結果この部隊の戦闘力は大いに上がったが、欧米からの介入を嫌う蒋介石との関係が悪くなってしまったため、結局最後までこうした問題が改善される事は無かった。また蒋介石は共産党との内戦に備えて軍備を温存しておりそれもアメリカ側を失望させる原因となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%BB%8D 

https://dic.pixiv.net/a/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%BB%8D 

 一方の中国共産党軍は三大規律八項注意という鉄の規律を守り、民衆の支持を得て毛沢東思想に基づいて農村などの地域共同体と一体化して兵站の確保を容易にし、人民の海に紛れての隠密活動と神出鬼没のゲリラ戦を得意とした。中国共産党軍は、日本軍が中国国民党から奪い取った占領地の内、点(都市)と線(鉄道)以外の広大な農村地帯を奪還するコトに成功している。

下の地図の内緑の部分が中国共産党軍が日本軍から奪還した土地である。

 

 華北に於ける中国共産党軍の勝利が続くと、蔣介石・国民党は警戒心を強め、次第に敵視するようになった。1941年1月には国民革命軍が中国共産党軍を攻撃し、壊滅させるという事実上の内戦(皖南事変)が起こっている。しかし、共産党は国民党の挑発に乗らず、基本的には国共合作は維持された。その中で、むしろ抗日戦の主役として中国共産党軍が主導権を握っていった。

https://www.y-history.net/appendix/wh1504-062_1.html 

これに対抗するべく日本と同盟する汪兆銘政権は、地域組織「新民会」等を組織して同様の民衆工作に取り組んだが効果は限定的であった。蒋介石が指導する中国国民党軍は米英の援助により装備は優れていたものの、兵力温存を理由に日本軍との正面決戦を避ける傾向があったので中国民衆の支持を失っていた。蒋介石が兵力温存に執心したのは抗日戦後の共産党との決戦に備える為であったが、この方針は裏目に出て国共内戦での劣勢を招くことになった。国民党を支援していたアメリカも蒋介石に不信感を抱くようになり、蒋介石との関係が悪化した軍事顧問スティルウェルは解任されている。抗日戦での活躍を中国民衆に大きく印象付ける事に成功した中国共産党軍は、その後の国共内戦においても大衆の支持を集めて戦況を有利なものにしている。日本降伏と日本軍武装解除後に開始された国共内戦時には、中国大陸に残留して中国共産党軍への入隊を希望する日本軍人も少なくなかった。当時の中国共産党軍はその軍紀(三大紀律八項注意)遵守が評判になっており、また日本人捕虜を厚遇して寛大に扱っていたという伝聞もあったので、中国共産党軍に好意的な感情を持つ日本軍将兵も少なからずいた。支那派遣軍勤務だった昭和天皇の弟三笠宮崇仁親王も八路軍の軍紀に魅了されていた。これはソ連の赤軍との大きな違いであった。特殊技能を持つ日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)の中には長期の残留を求められて帰国が遅れた者もいた(気象台勤務であった作家の新田次郎など)。また、聶栄臻のように戦災で親を亡くした日本人の姉妹に自ら直筆の手紙を持たせて日本へと送るよう配慮した人物もいた。

 当時の中国は中国共産党の中華人民共和国では無く中華民国だという人もいるが、大陸の支配権と中国の代表権は中国共産党の中華人民共和国が引き継いでいる為、現在の中華人民共和国が抗日戦争の勝利を喧伝するコトは全く問題が無い。
 これらの事実を見落としてしまうと歴史の要因を見落としてしまう為、中共憎しで日中戦争で日本軍と戦ったのは蒋介石率いる中国国民党軍で毛沢東率いる中国共産党軍は戦っていないと言うのは辞めようでは無いか!!!!!