「走れクニミツ」は映画の原作として十分魅力的だと思うのですが。 | F1っぅ放送作家 高桐 唯詩のブログ

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70年代から業界で働き、F1総集編26年。ル・マン、パリ~ダカ、ツール・ド・フランスなど冒険好き。現場経験多数。基本は詩人だがレース関係が長いので、クルマ関係者だと思われている。
ちょっとおしゃれで、インテリジェントな、時々泣ける話を目指します。

先週のブログで予告いたしましたが、これまでに私が書いた本の中で、あまり知られていない部分を紹介しましょう。

 

 

 

 「走れクニミツ」小説高橋国光物語の中。実は第2章で、本田技研の始まりの頃についてけっこう詳細な描写があります。

 

 2代目社長の河島喜好が入社してすぐやった仕事は、エンジンの設計というよりは、戦争中に陸軍が使っていた6号無線機。この無線機を動かすための発電用のエンジンがありました。その小型エンジンを製造元だった小田原の三国商工と言う会社の倉庫まで取りに行き、それを浜松に持ち帰って再生するという仕事だったのです。

 

 HONDAのバタバタは、まずホンダ製エンジンがあったわけではなく 、戦争時代の残骸からはじめたのです。

 

 名誉のために言いますが本田宗一郎もエントツ・エンジンと呼ばれる小型エンジンを設計しました。しかし当時の工作機械の精度が悪かったため、動きませんでした。

 

そこで河島喜好は昭和22年の10月 A型エンジンを設計。これが爆発的ヒットとなって、HONDAのバタバタを作り売れに売れたのです。「走れクニミツ」にはそういうお話がどんどん出てきます。

 

 

 一方、マン島 TTレースに出場宣言して、二輪の世界グランプリに出て行ったHONDAですが、本田宗一郎は河島喜好にGPレーサー・マシンの細かいことは言わなかった。

 

  河島が「社長、グランプリではこうなんですから、こう やります」と言うと「ふん、勝手にしろ」と言って、本田宗一郎はあまり口出ししませんでした。

 

 その時のことを河島さんは僕(高桐)に、こう語りました。

「だって、知らないんだもの口をはさめるわけがない。ヨーロッパについて 、レーサー・マシンについては我々のメンバーしか知り得ないことが多かった」

宗一郎はしかたなくクニミツやその他のライダーを労ったり、もっと遊べとからかったりするしかなかった。そんなシーンもあります。

 

  さらに1962年マン島で高橋国光が、空を100メートルほど飛んで、瀕死の重傷を負った大事故に関して、他では読めない細い描写があります。

 

 本田宗一郎は「国光を死なせちゃならねぇぞ。国光を助けろ」そう言って、ドクターをイギリスに送り、お父さんも無理やりパスポートを取ってイギリスに飛ばしたのです。何と言っても1964年の東京オリンピックの前のこと。そんな時代に緊急にイギリスで人を派遣するというのは本当に大変なことだった。

 

 そういうまさしく昭和のレトロ。レースのレトロが、あらゆるところに出てくる小説。

 

そして高橋国光少年は、本当に純粋無垢で、ただ速く走ることだけが生きがいであり、喜びだったという少年だった。

 

 

 

今まさしく78歳の、レース界のレジェンドだが、できることならこの「走れクニミツ」を原作にした、映画があってもいいじゃないか。僕はそう思うのだ。

 

 

 

 夢を一途に求めた時代。

 しらけて何も考えない時代ではなく、

 皆が汗した時代。

 日本を作っていった時代。

 

 それを映画にして、みんなに見てもらいたいし、できればブラジルや中国や、世界中で見てほしい。

 

 どうか皆さんの力で、もう一度このお話を、世に広め、Hondaのストーリーと共に、感動する、面白い映画になればと、願うものであります。

 

 求む。幅広い視野を持った映画プロデューサー!(笑)

 

「走れクニミツ」は紙の本でも電子ブックでも読めますので、若い人たちに読んで欲しい。

 

 

 

 

じゃあまたね。

 

バイバイ