せめぎあい
一度高まった興奮が冷めるまでにはしばらくの時間を要した。
少し落ち着きを取り戻すと、自分のした事の大きさに気ずいてきた。
「ママ、ごめん。」
「・・・・いいの私も少し酔ってたから、」
この店は会員制の高級クラブ。それなのにお触りクラブのような振る舞いを
した自分が恥ずかしくなってきた。
「でもね、ママ、・・・」
「何?」
「いや、何でもないです。今日は帰ります」
「・・・・・・」
「・・・・・また今度アポイントを取らせて頂きます。いいですか?」
「・・・・・うん、そうね。」
私は外に出て大きく深呼吸をした。
あたりは薄明るくなりはじめていた。酔いも覚め、心地よい風が頬をかすめていく。
手のひらに残るママの太腿の温もりが頭を離れない。かと思うと
仕事の一線を踏み外した馬鹿な自分を叱責する声が、交互に浮かんでくる。
理性と感情のせめぎ合いが続く。歩いているうちに、その時は聞き逃していた
ママの言葉がポツポツ浮かんできた。
「夜の仕事に従事する者はね、女性であっても芯は男性でないと勤まらない面があって
、結構、大変なのよ。ビジネスとしての自覚がないとまず長続きしないわね。うちの若い
女の子にも色気だけでこの仕事が出来ると勘違いして入ってくるけど、まず無理。
それどころか、必ずトラブルに繋がって辞めていくわ。接客ってそんな甘いものじゃないのよ」
まだ会社の始業までは時間がある。ふと目の前のコーヒーのPOPが私を店に引き入れた。
いけない事
それに随分アルコールが廻ってきたのか、言葉が怪しくなってきた。
「あなたねーさっきから頷いてばかりいないで、少しは私にも意見をいいなさいよ」と
絡み酒の様相を呈してきた。
「ママ、ちょっと飲みすぎた?」
「何いってるの、あなたはねーさっきから聞いてばかりであなたの考えも言いなさいよー」
「まあまあ、ママのお店のことをもう少し聞かせてください。」
「もう殆どお話ししたじゃない、それよりもっと飲みましょ!」
バーボンを勢いよく注ぎ、そのグラスをわたしの口元に向けて
「ハイ、あなたの記事が上手くかけますように、」と、私の目を見ながら
右手を首に巻きつけてきた。
そのグラスをママから取り、一気に飲んだ。
何か妙な衝動に襲われてきた。
ママは左手で私の手を握り締め、自分の膝に誘導していった。
ほのかに火照った体温を感じながら、私の手は更に奥の方にいこうとしている。
アルコールの勢いも手伝って何の躊躇もなくなっていた。
より高い温もりの方に手を滑らせた瞬間、ピクッとママの体が反応した。
と、同時にその行く手を阻むように両脚をキュッと閉じて、左手で私の手首を
つかんだ。
「これ以上は駄目!ここは神聖なお店、ごめんなさい。」というなり
スカートの裾を直しながら座りなおし、背筋をシャンと伸ばしグラスの水をグイグイ飲んだ。
しばらくの静寂、お互い気まずい、反省にも似た空気に包まれた。
感情の高まり
「人間生きていく為には空気が欠かせないでしょ?」
「そりゃー直ぐ死んじゃいます」
「その空気の中の21%が酸素の量なんだって」
「まだ他にもあるんですか?」
「地球の表面積の72パーセントは海」
「企業でも商店でも正常な粗利益率は20~30%じゃない?」
「うーむ、そうかなー」
「とにかく生きていく為のノウハウを他に比べて沢山持っているてことだと思うわ」
「ふーん、ママっていろいろ物知りなんだね」
「いやいや、単なる受け売り。店によくいらっしゃるお医者さん
のお話。」
「へー、そんな事どこで勉強するんだろうね。」
「だからユダヤ人は世界有数の科学者、実業家といった偉人を
多く輩出しているんだって。アメリカのユダヤ系の医者は14万人なんだって。
とにかく数字にはめっぽう強いらしいわ」
「ユダヤ人は5000年の歴史があるらしいけど、迫害の歴史だったとも言えるじゃない?結果、
祖国を追われて世界中に散らばってしまった。」
「そうだね、気の毒というか・・・」
「郷土を追われるって,私の家族達も同じ。その気持ちはよくわかるわ。」
「------」
「だから、その歴史を繰り返すうちに自然と知力と財力を手にしていった。」
「うーん」
「そりゃそうでしょ!他に頼れるものがない人間にとってそれしかなくなるのよ」
ママはいっそう語気を強めてきた。
ユダヤの法則
「あなたね、ユダヤの法則って知ってる?」
「何ですか、それ?」
「ユダヤ人は歴史が一番古く、生きる為の知恵が
それだけ多いってことらしいのよ。」
「?????」
「2対8の理論、通称二八の原理で成り立っている事が
結構多いのよ。」
「例えば?」
「もっとも、プラスマイナス10パーセントの誤差はあるらしいけどね」
「具体的に、もっとわかりやすくお願いします」
「世の中に流れているお金の80%を全人口の
20%の人が持っているということ。この逆はわかるでしょ?」
「え?・・・ 20%のお金を80%の人で分けあっている?」
「あなたはそう思わない?」
「・・・・????」
姉の思い
店には客もいなくなり、ママと二人きりの時間が流れていた。
「姉もあの日を境に一つの大きな決断をしたんだと思うわ。」
「うーむ」
「高校時代の彼氏が東大を卒業して一流商社に就職が決まり、久しぶりに会ったらしいけど
私のことを大学入学までアシストすることを頼んでいったらしいの。自分は時間的に
無理なことはわかっているからおそらくそうしたんだとと思う」
「それで具体的に何か教えてもらったの」
「送られてきたのはスケジュール表だけだったわ」
「それだけ?」
「何時までに何をどうするか、それだけ」
「ふーん、」
「でも姉がそんな状況に置かれてまで私の事を思ってくれていると
感じたとき、その表の意味がズシンと私に響いてきたの」
「人間てねー、たったそれだけのことでも変われるものなのよ」
「ふーん・・・」
「気持ちの中に核みたいなものができるとね、今まで大変な事と思えていたことが
スーッと解けて楽になるというか、上手くいえないけど」
頭の悪い私にはその感覚は理解しがたいが、そういうものらしい。
どうも頭のいい人の世界は違うのかもしれない。
覚悟
どれくらいの時間がたったのだろう、足が棒のようになっている。
気ずいた頃には日も暮れかけてきた。
家の近くにきた時に父の顔が見えた。伏目がちに無言で
通り過ぎて行く後姿を見ると「百合、すまん、すまん、」と言っているように
思えてならなかった。
家に入るなりどっと溢れてくるものを止める事はできなかった。
とめどなく出てくる、呼吸するのもままならない。思い切り声を大にして泣いた。
しばらくすると、涙がもやもやを払拭したのか不思議にもひとつの思いが百合を支配してきた。
覚悟というか、潔さというか、すがすがしさも伴ったこれからの方向が決まった瞬間だった。
その時、京子が帰ってきた。
葛藤
百合は心の中で叫んでいた。
「叔父さん、それは誰?早く教えて!」
普通の生活を渇望してきた百合にとって、叔父の言った言葉は全身を振るわせる
ほどの力を持っていた。
「・・・・・・」でも言葉にならない。声が出ないのである。
叔父にも世話になり、肩身の狭い思いで暮らしている
今、どうして言えようか。でも普通に戻りたい、でもそれが
出来ない、自分をコントロールすることが限界にきた。
「叔父さん、ごめんなさい」
「どうした?百合ちゃん!」
百合はこらえきれず立ち上がった。
百合は外に出た。どこをどう歩いたのか、周りは
何も見えていない。車も人も、音も聞こえていない。
聞こえてくるのは「早く楽になれ、女が一人頑張ったところで
たかが知れている、そんな事を言ってくれている人があるなら、甘えたら?
自分の好きな学ぶことも思い切り出来る。こちらから頼んだわけでもない、いうなら
今しかないよ・・・・」
自分の内面から次々に突き上げてくる声に
「いや、もし今それを受け入れたら又新たに借りができる。借りの
重圧は今すでに味わっているではないか、もう肩身の狭い思いはよそう」
答えを出せないまま街中をさまよった。
揺れる心
「でも、澄子も幸せや、こんな姉妹を授けてもらって。」
この間もな、百合ちゃんにも言うたんだけど、今からでも
遅くないから大学受けたらどうや、あんただったら絶対に
受かるだろうからと話しとったんだが、」
「それで?お姉さんは何て?」
「叔父さん、有難う。でも今の状況ではとてもそんな事
できやせん。債権者の人達にも顔向けできないし、もう
とうに諦めています。」
「そうか・・・なぁ百合ちゃん、債権者の中にも
昔、父さんと母さんに大変お世話になったいうてな、差し出がましいことやけど今ある
債務の肩代わりを申し出てくれている人がいるんやけどなぁ・・・」
「え?。・・・」
百合ちゃんも知ってる人だと思うが、百合ちゃんたち姉妹が
不憫でならんいうてな・・・」
「ーーーーー」
姉の決意
「とにかく何が何でも大学だけはでないかん。」
何がどうしてそんな言葉がでてくるのか皆目わからない。
脈絡のない姉の言葉の意味が分かるまでには、叔父の
話を聞くまではわからなかった。
叔父は母の3つ上の兄で、妹思いの優しい面が言葉の
端はしにも出ていた。
「京ちゃんの母さんも父さんの嫁になって、苦労もいっぱいしただろうが
ほんもうだったのかもしれん。結果的にはな、こんな悲しい事になって
しまったが、父さんの暖かくて人を疑うことを知らない純朴な
性格が、母さんはたまらなく好きだったんだよ。」
「・・・・・・」
「澄子はいつも京ちゃんと百合ちゃんのことを自慢しとった。二人とも
頭がいいのは父さん似で、女の子は父親の血をうけつぐんものだねーと
しきりに言うとった。」
遠くを見つめるような目で、その時の妹の声と表情を
思い出しているのであろう
姉の涙
魂の抜けた父に、生きる気力もあろうはずもなく、焦点の定まらない
毎日の行動を気にしての言葉であった。
自分にはそんな姉が悲しくもあり、反面、素敵にも見えた.
だから素直になれた。
正月も何もない年が何年続いただろうか。無事公立高校に合格でき
日常的にほんの少しだけ落ち着きを取り戻しつつある日、姉が初めて
肩を震わせて嗚咽している姿に遭遇した。
「姉さん、どうした?」
「 ―――――――――― 」
「姉さん、何があったの?」
姉は人相まで変わり、目は真っ赤で腫れている。
呼吸もままならないくらい、肩で大きく息をしている。
これはただ事ではない、不安な予感を感じながら姉の答えをじっと待った。
「京子、あんたは絶対に大学までいくんだよ!」
「え、????」