はじめに
最近は学年末で不規則な予定が続いております。
更新が滞ってしまい、忸怩たる思いです。
さて、前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。
自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。
これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。
5章 現代における英語学習・教育の意義
ここまで英語学習において、identityが軽視されていること、またtranslanguagingという「自然」な言語使用に焦点を当てる(そしてそれがidentityを獲得・表現・創造することになる)ことを述べてきました。深く共感し、理解してくださった読者の方もいらっしゃるかと思いますが、一方で従来の英語学習・教育との整合性のなさを感じておられる方もいらっしゃると思います。正直に言って、私も学校現場で教える立場として、identityやtranslanguagingの重視した活動を取り入れる難しさを日々感じ、奮闘しております。
そんな時、改めて大事だと思うのは、我々はなぜ英語を学び、教えているのかという「目的」や「使命感」であると思います。当然学習者の目線でいえば、TOEICなどのスコアをあげることで昇進につながるといった実用的な目的もあるかと思いますが、より深掘りしていくと、もっと大きな「目的」や「使命感」があると思います。そこで、もう一度前述した現代という時代における英語学習・教育の意義を考えるべく、より広い視野から「ことば」の学習について考えていきたいと思います。
障害と第二言語学習
「障害」といってもたくさんの種類があると思いますが、ここでは①吃音症、②自閉症 に限定してまとめていきたいと思います。
①吃音症
すでに第3章でも述べましたが、吃音症の感じる苦労と第二言語学習者の苦労は似ているところがあると思います。伊藤 (2018)に書かれている吃音症と第二言語学習でよく見られる現象を比較した、以下の表をご覧ください。
表の左側「吃音」の方を見ると、第二言語学習との共通点が意外にも多くて驚かれるのではないでしょうか。
もちろん僕は吃音症の専門家ではないですし、この本の中でも第二言語学習との違いについて時折明確に述べられていますが、似たような現象が起きていると考えられることも多いと思います。
であるならば、吃音の支援・指導と第二言語学習の支援・指導は、場合によっては互いに応用が効くのではないか、と考えることもできるはずです。
もう少し詳しく見ていきましょう。
No. 25
(吃音)会話は自分だけのリズムではできないので、「のる」(=リズムにのって気楽に話せる)を意図的にするのは難しい。
(第二言語学習)会話が相手とのリズムというのは当てはまる。第二言語であっても、話しやすい相手とそうでない相手は存在する。(=自分だけの問題ではない)
会話が相手との共同作業というのがとても大事な観点です。よく第二言語学習者は自分の言いたいことが伝わらない時に落ち込んでしまう(identityが傷つけられる)のですが、よく考えたら相手がもっといい聞き手であったら、そんな思いしなくて済むかもしれません。もちろん自分が話し手のときは相手に負担をかけないように、という配慮が必要ですが、聞き手の役割も大きいのです。話し手を楽にさせてあげるの聞き手が理想的ですね。こういった相互支援があれば、吃音の人であっても第二言語学習者であっても(もっというと、他のいかなる障害者と言われる人であっても)、お互いが傷つかずに会話できるはずです。このようなことも、伊藤 (2018) から学ばせてもらえました。
No. 26
(吃音)「流暢にしゃべる」と「思ったとおりにしゃべる」は同義ではない。
(第二言語学習者)まさに当てはまる。スラスラ話せているようでも、本当に言いたいことが言えているわけではない。
No. 28
(吃音)コミュニケーションを円滑にし、運動を助けるための演技(=キャラを演じること)であっても、周りには人格の印象として受け取られることも。キャラの調整がうまくいかず、言いたいことを言うので精一杯という状態に陥る。
(第二言語学習)非常にあてはまる。第二言語の運用能力の足りなさゆえに、自分の思いどおりのidentityが形成、表現できない事は多々ある。「言いたいことを言うのに精一杯」という状態も本当によくある話。
これはまさに以前identityについて述べたことです。第二言語学習者が抱えるidentityのリスクといってもいいかもしれません。
No. 29
(吃音)言い換えは「本当の自分」ではないからよくないという否定派。一方、「言い換えする自分もまた自分」と「本当の自分」を規定しないで生きる共存派。
(第二言語学習)共存派とSLAにおけるidentityは親和性が高い。Identityとは「本当の自分」ではなく、ことばによって形成、表現をするもの。
これは少し補足が必要で、そもそもしゃべる行為はズレを生むものだ、というのが前提としてあります。どういうことかというと、人は何もかも考えてから話すことはなく、話しているうちに思いがけないことを口にするし、話しながら思考や感情に気づくこともある。だから、「本当の自分」から一切ズレずに伝えることなんてできるわけではない、というのが上記の引用部分の意味です。これはSLAにおけるidentityによく当てはまっています。吃音の言い換え共存派と同様に、第二言語学習においても「うまく言えなくてもそれもまた自分」「発音や言い回しがネイティブのようでなくてもこれもまた自分」と思えれば、自分好みのidentityを創出、表現することができるのです。
以上のように、吃音症の方と第二言語学習者は共通する問題を抱えています。当然吃音症を持たない僕が吃音症のことを完全に理解しているわけではなく、この点は配慮しても仕切れないところなのですが、それでも僕がこの「共通点」に注目したいのはわけがあります。
それは、僕がこの本のタイトルとして掲げ、この第5章で考えたいと思う1番の内容が、「誰も傷つかない英語学習・英語教育」だからです。この無謀にも思えるゴールを掲げる理由は、この伊藤 (2018) が教えてくれているように、私たちの配慮一つで「困難を抱える人」「難しい人と捉えられてしまいがちな人」が傷つかず、もっと生きやすくなると思うからです。身の回りにこういう人はたくさんいるはずです。吃音症の人、英語学習者だけでなく、障害者と言われる人やその他のマイノリティとみなされて苦しんでいる人。そのような人に対しても配慮ができ、相互支援しあえる健全な対等関係を築いていけるようになることが、本当の最終目標なのです。
そんな究極のゴールに少しでも近づくために、第二言語学習(特に、英語学習・教育)は大きな役割があると私は考えています。壮大な話になってしまいましたが、このような思いを胸に、現場での実践はもちろん、ここまでこの本を書き進めてまいりました。
②自閉症
自閉症の方と「ことば」に関して、紹介したいことが2つございます。1つ目が自閉症者の方言、もう一つがSST(Social Skill Training:社会で適切な言動を学ぶ訓練)についてです。早速見てみましょう。
<方言>
自閉症者の言語使用は、いわゆる健常者と比べて特徴的であるといわれますが、方言に関してもとても興味深い研究があります。松本 (2020) を紹介するのですが、まずは方言とidentityについて少し前提を確認しておきたいと思います。
まずは前提としてですが、「方言とidentityが強く結びついている」というのは多くの人がなんとなく納得できることではないでしょうか。たとえば、東京に移り住んできた人が自分の出身地の方言を話し続けているのをきくと、なんとなく「この人は自分の地元を大切にしているんだな、誇りに思っているんだな」「東京にいても自分らしくいたいんだな」といった感想を持つかと思います。
反対に、ことばとコミュニティのメンバーシップには強い結びつきがあるため、東京という土地になじむべく、自分の方言を封印して「標準語」を話すように努める人もいます。実際、関西出身のお笑い芸人さんは、東京に進出してから関西弁を話さなくすることで馴染もうとする人がいますが、その状態を関西出身の他の芸人さんに「東京に染まった」とみなされてからかわれたりしていますね。話がそれましたが、方言はその土地特有のことばであるがゆえに、identityと深く関係があるといっていいでしょう。
こういった前提を踏まえた上で、松本 (2020) では、「自閉症者は方言を話さないのか」といったこと中心に議論を進めています。実際簡単にまとめてしまうと、一般的に自閉症者は「人間関係」を理解するのが苦手とされているので、メディアなどで普遍的に使われる「共通語」と比べて「関係性」のなかで使われる方言を習得するのが難しく、あまり使用することがないという論が展開されていきます。また、松本氏はこの本の中で定型発達の日本の子や海外の子どものごっこ遊びについて言及し、方言の使用についてまとめています。その中で興味深い内容を二つ紹介します。
(1) 定形発達の子どもは方言を使いこなせる
いわゆる定形発達の人は、3歳からでも方言と共通語の区別がつくと松本氏は述べています。いくつかの研究が引用されているのですが、子どもはごっこ遊びのなかで、セリフの部分は共通語で話し、セリフ外で「自分」が話す時には方言を使うというのです。これは方言の社会的機能を学習し、効果的に使っているという証でしょう。
(2) ドミニカ国の子どものことば
Paugh (2005)によるドミニカ国の子どもたちのごっこ遊びの分析を松本氏は紹介しています。ドミニカ国は英語が公用語ですが、フランス語をベースとしたパトワ語というクレオール言語が農村部では話されています。しかし、長い歴史の中で英語が優勢とされ、農村部の大人たちも子どもには基本的に英語を話すようにしているそうです。パトワ語を使うのは感情の伴うやりとりくらいで、基本的には子どもには使いませんし、話すことを禁止することさえあります。ですから子どもたちの第一言語は英語です。
ですが、やはりごっこ遊びの中で子どもたちは、ローカルな大人が話すときのセリフはパトワ語を使っていたといいます。一方、教師(英語を話す大人)のことばは英語にしていたそうです。自分たちはパトワ語で会話をすることはほとんどないのに、ローカルな言葉はパトワ語、公用語は英語ということを知って区別していたということになります。
このことについて松本氏は以下のように述べています。
話すことを禁止されているにもかかわらず、ごっこ遊びにおいて役割などに応じてパトワ語を使用することは、子どもが自分が属する社会の人々の振る舞いやことばを身につけていくとき、大人にやれと言われたからやっているのではなく、より能動的にそれらを取り入れようとしていることを意味します。(p. 51、強調は筆者)
SLA(第二言語習得論)の用語で言えば、この子どもたちはagencyを発揮しているということになりますね。子どももidentity workをしていることの証です。
以上をまとめると、子どもたちはただ機械的にことばを見聞きして習得しているのではなく、ことばを能動的に取り入れ、自分たちのものにしていっています。また、子どもたちの「方言と共通語」や「ローカルなことばと公用語」のtranslanguagingも見逃せません。子どもたちは意図的ではないにせよ、agentive(主体的・能動的)にことばを巧みに使い、コミュニケーションをとりつつ自分たちのidentitiesを示していました。これまでの投稿でも書いてきましたが、これこそが「リアル」なことばのやりとりではないでしょうか。やはり、translanguagingは身近なところにあります。もっといえば、人々が自然に日常的に行っていることなのです。
松本 (2020) では他にもidentityやtranslanguagingに関係する内容がまとめられていました。箇条書きでその内容を抜粋したいと思います。
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自閉症者は模倣から自己化をするよりも、場面を再現することにこだわりがある
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方言は関係性や状況によりさらに多様になる
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ことばの「意図」は、「文脈」と「行動」から読み取るものである
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「意図」のレパートリーが共有されている者同士では、「意図」の読み取りは簡単。→自分の「意図」を通じて相手の「意図」を読み取ろうとするから
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協同作業には「調整」が必要。「目標」が同じだとしても「プラン」が違うかもしれないから(ことばのやり取りも協同作業)
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定形発達の人は「直感」から理由を学ぶが、自閉症者は言葉で理由を学ぶだけだから「直感」が身につきにくい
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自閉症者は心理化フィルタがうまく機能せず、情報の取捨選択が苦手。だから人のような複雑すぎるものは理解できない
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一方、自閉症者も「観察」、「経験」、「分析」を通じて「注意」が促され、学習するケースもある
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なぜ自閉症者が健常者と違うのかと問うのなら、なぜ健常者は「健常者」として同じような性質を持つのかということを考えるべき。そうすることで自閉症者に対する理解も深まるかもしれない
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自閉症者もことばの社会的機能に気づいたとき(たとえば、周囲になじむ必要があると気づいたとき)、方言がでるようになることもある
読んでいて興味深い箇所を抜粋したので、それぞれのつながりがわかりにくいかもしれませんが、以下の三つのことが英語学習(第二言語習得)において重要だと思います。
ことばは社会的なもの
ことばは人々が「意図」を伝達し合うための大切なツールです。つまりそれは一方通行ではなく、協同作業です。その協同作業の中で「意味」を共有していくので、意味は最初からあるというよりその「文脈」に依存しています。そしてことばを通じてなんらかの「目標」を達成していきます。こうやって考えると、ことばはいうまでもなく「社会的な営みを支えるもの」であるといえます。
多くの人がこのことを理解している一方で、第二言語学習・教育においては意外と軽視されていることが多いです。たとえば今回の投稿の最初に書いたような音読などのトレーニング重視の英語学習・教育だと、英語の「型」を身につけているのに止まっており、社会的な機能の学習には至りません。ことばが社会的なものであるということをよく理解していれば、これではことばの学習・教育をしているとはいえない(少なくともとても部分的なものである)と気付くと思います。
ことばの社会的機能を無視してことばを学習することはできない
ことばが社会的なものであるのなら、つまり社会的機能を備えるものであるならば、ことばの学習はただのシニフィエ(概念やイメージ、つまり意味内容)とシニフィアン(文字や音、つまり意味を表すもの)のセットを学ぶ行為ではないということがわかると思います。もちろん意味と音/綴りを学ぶことはことばの学習において重要なファクターですが、それだけでは真にことばの学習をしているとはいえません。
音読などのトレーニング重視の英語学習・教育では、ことばの社会的機能に「注意」を払うことさえ必要がなくなってしまいます。そうするというまでもなく、実際に使うなかで養われる「直感」を獲得する機会が一切無くなってしまいます。
Identityを創出、表現、構築していく学習にならない
ことばの社会的側面を軽視することは、このブログの二大テーマの一つであるidentityを軽視した英語学習・教育になってしまうということでもあります。
もちろん英語学習・教育の目標は人それぞれです。実際日本にいる多くの人は、英検やTOEIC、受験において高得点を獲得することが最大の目標かもしれません。それゆえに多くの指導者も、学習者の目標を叶えるべく奮闘されていると思います。
これ自体を否定するつもりは毛頭ないのですが、僕は少し先の未来を見据えて英語学習・教育に関わっていきたいと考えており、だからこそこの本を書いているのです。
少し先の未来についてはすでに述べましたが、簡単にいえば「ある程度の英語を聴ける・読める・書ける・話せる」というレベルはもうAIによって必要性が低くなるので、それ以上のことを英語学習・教育でやっていく必要があるということです。それが僕にとっては、identityやtranslanguagingであり、これらを考慮に入れた英語学習・教育が広く実現されれば、この本のテーマでもある「誰も傷つかない」世界に近づいていけるのだと信じています。
話が大きくなりましたが、ことばの社会的側面を軽視すると真にことばを学べないというだけでなく、identityを軽視することにもつながってしまうのです。それはこの時代の英語学習・教育としては「もったいない」と僕は思います。