はじめに

先週はかなりショックなアクシデントがあり、更新できる状況ではありませんでした。

今週も色々と大変ですが、なんとか更新できました。

これからまた頑張って積み上げていきたいと思います!

 

さて、前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。

 

 

 

 

  4章  identity・translanguagingを英語学習・教育に取り入れる方法

 

前章まで、英語学習・教育におけるidentityの問題や、それに対応するためのtranslanguagingという考え方について述べてきました。第4章では、具体的にidentityやtranslanguagingを英語学習・教育でどのように扱っていくのか、具体的な方法を考えていきたいと思います。まずは指導者のあり方や、translanguagingを取り入れる際に乗り越えるべき壁について書きます。


 

指導者のあり方

    第1章では「identityとは人間関係の中で生じる(決定される)ものだ」ということを確認しました。そうすると英語学習においても、指導者と学習者の関係は当然考慮に入れなければなりません。読者の方々も、学習者目線で「あの英語の先生の授業はやりやすかったな」「あの英語の先生はなんか嫌だったな」という経験があるかと思います。今回は英語の指導者の立場から、「英語の指導者とは何者か」「英語の指導者はどうあるべきなのか=どんなidentityを表現していくべきなのか」を念頭に置き、議論を進めていきたいと思います。

    ところでここでいう「英語の指導者」は、日本で教育を受けてきたいわゆる英語ネイティブではない指導者であるとします。そして学習者は、日本で英語を外国語として学んでいる人とします(年齢は小学校高学年以降にしておきます)。

では、英語の先生とは何者かというと、簡単にいえば生身の「人間」です。こんなこと書く必要ないのではないかと言われそうなのですが、意外と重要なことです。たとえば学習者目線でいうと、特に英語の苦手な学習者は英語の先生をまるで「天才」や「スーパーマン」であるかのように無意識に感じていることがあります。確かに島国・日本で英語の先生をしているということは、英語学習における「成功者」であるといえるでしょう。それだけで尊敬されるのも理解できます。 

反対に指導者目線でみると、自分が英語学習においての「成功者」であることにプライドを高く持っている人や、逆にそのことに無自覚である人が多いように思います。前者は悪く言えば「偉そう」な態度をとって生徒にマウントを取りがちで、後者は「自分にできたのだから、あなたもできる!」と、生徒にとっては過剰にポジティブな人に見えがちです(ちなみに僕は、どちらかというと後者タイプですね)。

ですが、考えてみれば当然のことですが、英語ができるのはただの一つの側面 (=identity) に過ぎません。しかし上記のように、学習者は英語の先生はなんでも知っているかのように思っていたり、先生はそれに応えようと偉そうになったりpushyになったりしがちです。学習者も指導者も、このようなことを経験したり、見聞きしたことがあるのではないでしょうか(全くないという方は、X(旧 Twitter)で英語について検索してみると、この状況をみることができます)。

だからこそ、最初に書いた「英語の先生も生身の人間」というのは意識的に明確にしておく必要があります。そして、「英語教育者」というidentity以外にも、さまざまなidentitiesがあることを明示的に示していく必要があります。

    とはいえ、英語の指導者は何もかも学習者に曝け出さなければいけないわけではありません。そこで僕が注目しているのは、英語の指導者の「英語学習者」としてのidentityです。なぜかというと、英語学習者としてのidentityを示していくことで、学習者と同じ立場になることができるからです。言い換えると、「英語コミュニティのメンバーの一員」になることができるのです。

英語学習者としてのidentityを示す方法として、Language Learning Histories (LLHs)を学習者にシェアするという方法があります。簡単に言えば、生徒に自身の英語学習歴を語ったり書き記したものを見せたりすることです。そうすることで、指導者も学習者と同じ「生身の人間」であること、また「現在進行形の英語学習者」であることを示すことができ、学習者は上記に書いたような英語の先生に対する「幻想」を抱かなくなります。

また、学習者自身がLLHsを書き、それをシェアすることも有効です。学習者は自身のidentitiesの変容を感じたり、他者のidentity work をみて自身のidentityを決定したりできます。また、LLHsを英語で表すことで、学習者は英語でagencyを発揮することにも繋がります(詳しくはMurphey et al. (2005) をお読みください)。さらに言えば、先生も学習者も英語でLLHsを示すことで、彼らは「英語学習者」であると同時に、「英語の使用者」としてのidentityも獲得することになります。「指導者 | 学習者」という関係から、「英語の使用者」という「同志」になることができるのです。こうなることで初めて、学習者は自信を持って英語の活動に「参加」することができるようになるでしょう。このような関係性の変化が、安心して英語学習を進めていくには大切になるのです。


 

translanguagingの壁(中1の例)

    次に、translanguagingを英語学習・教育に導入していく際に立ちはだかる「壁」について書きます。僕は今年度(2023年度)、中学生の授業ばかりを担当しているのですが、去年まで高校生メインで6年間指導をしてきたので、とても違和感がありますし、体力を使うのでしんどいのですが、中学生の指導にも独特のやりがいを感じます。

多くの生徒は英語をまともに学び始めるのが中1(小学校では音声ベースで文法はやらない)ですから、英語学習の土台を作ってあげるのにものすごく神経を使っています。「英語嫌い」を作らないために、というのが常に自分の中でテーマとなっております。

前置きが長くなってしまいましたが、ここからtranslanguagingの壁という本題に入ります。本格的な英語学習導入期として、文字と音の関連を学ばせることを中心に取り組んできたのですが、一方で僕が密かにトライしてきたのは、translanguagingを身につける心構えを養うことでした。とはいえ何か特別なことをしたわけではなく、色々な指導の合間にちょこっとコメントを挟む形で「オールイングリッシュじゃなくてもいい」「日本語を使ってもいい」といった話をしてきただけです。たとえば授業最初の会話で、以下のようなやりとりをさせ、日本語を英会話に使ってもいいとしています。

 

A: How was your weekend?

B: It was great. I (ここからは日本語でも良い). How about you? 

A: It was good. (上と同じ).

 

中1ということもあり、学んだはずの動詞の過去形さえ英会話で使うのは難しいのですが、「日本語混じりの英会話」をすることで少しでもアウトプットをさせ、そしてそういった会話がを自然であることを体感させようとしています。

ペアのやり取りの後は何人かの生徒を当てて、みんなの前で僕との会話のやりとりをさせて見せて、日本語と英語の入り混じった会話に慣れていってもらっています。

しかし僕は、これをしていて「translanguagingの壁」を感じることになりました。僕や指名された生徒が日本語を使うと、何人かの生徒が笑いだすのです。まるで英会話に日本語が混じるのが「おかしい」かのように。これをみて、僕は「translanguagingの壁」はまだまだ厚いなと感じました。声かけと少しの実践では、「英語は英語、日本語は日本語。別言語は別物」という思想からの脱却は難しいようです。

    英語学習の初学者である中学1年生でさえ、暑いtranslanguagingの壁をもっているのですから、「従来の」英語学習・教育に取り組んできた学習者にとっては取り払うのは難しいでしょう。この本の読者の方でも、ここまでの内容を読みながら、本心では「translanguagingって大事なのはわかったけど、そんなの理想的な話で英語学習・教育に取り入れるのは大変ではないか」と思われている方もおられるでしょう。そこで、以下ではtranslanguagingを英語学習・教育に導入し、translingual identity を構築・表現・成長させていける方法を提案していきたいと思います。