はじめに

2月になりました。今年度もあと少し、本当に時間が経つのは早いですね。。。

 

そして、受験シーズンになりましたね。

非日常が続くので、僕も疲れが溜まっていきますが何とか頑張っています。

 

さて、前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。

 

 

 

 

  trans-の意義〜英語学習・教育を超えて〜

コラム:trans- の意義 〜英語学習・教育を超えて〜

 

すでにtrans-という接頭語の現代の意味について、transgenderや国境というものを例に説明しましたが、さらに広い視野からこの言葉を見ていくと、現代という時代が「あらゆる垣根が以前ほど意識されなくなっている時代」に見えてきます。また具体例を見ていきましょう。

 

① 参加型アート

僕はアートに精通しているわけではないのですが、僕が考えるに以前よりも参加型のアートが増えてきたように思います。

これがtrans- とどう関係しているのか簡単に説明します。通常アートとは、「鑑賞者(見る側)」と「作品(見られる側)」という関係性で成り立っています。皆さんが「アート」と聞いて思い浮かべる光景は、「作品 |(それを眺める)鑑賞者」といった構図ではないでしょうか。

しかし、参加型アートでは、「鑑賞者」は単なる「見る側」ではなくなり、作品の一部に溶け込んでいきます。言い換えるとこれは、「見る側」「見られる側」という「垣根」を越えた形といえるわけです。私はこれを、「trans-を反映したアートの形」であり、現代的なものなのではないかと考えています。

 

② 視聴者参加型のテレビ番組

これも参加型アートに似ていますが、テレビ番組でさえも参加型がしばしば見られます。たとえばdデータですが、これを使って投票を行い、国民が選んだ歌をアーティストが歌うといった形のテレビ番組を見た時、私はとても驚きました。

テレビこそ、「見る人 | 見られるコンテンツ」といった構図がぴったりだったはずですが、この垣根さえも越えていっているのが最近の傾向だと思います。

YoutubeやInstagramでのライブ配信にもあるように、視聴者からのコメントを配信者が読んで答えていくというのも、最近よく見る参加型のメディアだといえます。

 

③ 芸能人と一般人

SNSの影響が大きいと思いますが、最近では芸能人と一般人の境目も曖昧になってきていると思います。

以前だとテレビに出ている人が芸能人、というふうに考えられていたかと思いますが、今ではSNSで活躍されている人々も芸能人のように振る舞っていますし、インフルエンサーとして考えられています。いわゆるYoutuberと言われる人々はまさにその典型です。

これもある意味ではtrans- の一形態なのだと私は考えています。人々が境界線を意識しなくなった結果生まれたのが、Youtuberやインフルエンサーといった存在なのではないでしょうか。

 

④ 障害者と健常者

    障害者と健常者の境目も、現代では見直されてきているように思います。もちろんまだまだ障害者と健常者を分断する考え方も根強くありますが、「インクルーシブ教育」という言葉もあるように、障害者も健常者もわけずに学んでいくあり方や、雇用の面においてもインクルーシブな潮流が出てきました。

    code-swtchingのところで利き手のアナロジーを紹介しましたが、このアナロジーの出所も「吃音症」に関する本からでした。もちろん吃音ではない僕が本当の意味で吃音の方々の苦労を理解することは難しいのかもしれませんが、英語学習・教育を経験する中で吃音の方々の「言い換え」に似た経験もたくさんしてきましたし、それにまつわる議論(例:言い換えもまた自分?それともそれは本当の自分じゃない?)、すなわちidentityの問題も、この本を通じて書いてきたように僕の人生の大きなテーマになっております。

    また、グローバル化が進み、日本国内では「健常ではない」と考えられるような言動も、海外では「普通」だったりすることが明らかになってきました。そうなってくると、「障害も健常もある意味では文脈に依存しているのではないか」ということが考えられるようになってきました。

    このように、「障害者 | 健常者」のような境目がなくなることで、より多くの人が快適に生きられるようになっていくのではないかと考えています。まだまだ課題は多いですが、現代においてこの垣根が薄くなっていくこと、また英語学習・教育がその流れに勢いを与えられる営みであることを僕は信じています。このことについてはまた最後の章で議論していくつもりです。