はじめに

体調不良者が続出する学校で、よくもまあ生き残っているなあと自分を誇らしく思っているねこさん先生です。笑

疲労もありますし、いつ体調を崩してもおかしくない気がしますが笑、今日も頑張ってブログを更新しました!

 

前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。

 

 

 

PS. 

ウクライナ生まれの女性・椎野カロリーナさんが「ミス日本」に選ばれたことで物議を醸しているそうです。

そもそも「ミス日本」が必要なのかといった議論は一旦置いておきますが、このようなことでいちいち傷つかないといけない人がいることは受け入れ難いです。

僕のブログがこのようないろいろな問題に対処する一助になることを願っております。

 

  translingua identity を育む教育へ

code-switchingを超えて、translingual identityを育てる教育へ

この章の最後に、code-switchingとtranslanguagingの違いを再確認し、translingual identityを育む英語学習・教育の重要性について述べたいと思います。

 

code-switingとの違い;利き手とのアナロジー (伊藤, 2018)

少し話が逸れるように感じるかもしれませんが、伊藤 (2018) という「吃音症」に関する本を引用しながら、code-switchingのことを論じたいと思います。

伊藤 (2018) では、吃音症のなかには「難発」(言葉が詰まって出ない)という症状があり、その対処法の一つに「言い換え」があると述べられています。「言い換え」とは、その言葉の通り出てこない言葉を別の言葉で言い換えることであり、これは対処法であると同時に言葉が入れ替わってしまうという意味で「症状」でもあります。このことについて、伊藤 (2018) を簡単にまとめると、以下のようになります。

  • 「少し先にあの苦手な単語がくる」といった予感から無意識的に回避する

  • 類語による言い換え、意味の説明による言い換え、指し示したり相手に言わせる言い換えがある

  • 言いにくい言葉を避けること=自分にぴったりの言葉を探すこと

自分の「本来」言おうとしていることを避けているという意味では「本当の自分」ではないという主張もありますが、「言い換えをするのまた自分」という考え方もあります。この議論はこれまで述べてきた英語学習・教育におけるidentityやtranslanguagingの議論とも関連があります。

    伊藤 (2018) はこの「言い換え」に関して、「言い換え共存派」の立場を「利き手」とのアナロジーで表しています。

 

たしかに、利き手でない左手を使うと、右手ほど器用には作業ができず、ぎこちなさが残ります。左手の動きは、「こうしよう」という思いを十分に反映していません。けれども、思いから半ば切断されているそれも、やはり自分の体がやった行いであることには変わりありません。ズレていても、それもまた自分なのです。 (pp. 230-231)


 

これを読んだ時、僕は英語の授業で「オールイングリッシュ」が求められる中で母語を使うこととの関連を想起しました。この伊藤氏の「言い換え共存派」の意見は、code-switchingではなくtranslanguagingに近い考え方なのです。

    ただ、この「言い換え共存派」とtranslanguagingには明確な違いもあるので、最初にこの点は明記しておきます。簡潔にまとめるならば、「言い換え共存派」は「片方の手がダメならもう一方の手を使えばいい」というある意味「二者択一」的な考え方ですが(そしてそれは、code-swithing的でもあります)、translanguagingは、「片方の手がうまく使えないからもう片方の手を使う」というように「ある言語がうまく使えないから別の言語を使う」というネガティブなものではないということです。こういった大きな違いがあるものの、僕が言い換えとtranslanguagingを絡めて考えていきたい理由は、その他の部分がとてもよく当てはまっているからです。

まず前提を確認しておきますが、語学の教室(たとえば日本の「オールイングリッシュ」を謳う英語教室)では、学習者はいわば利き手と逆の手を常に使うよう強要されている状態ということになります。利き手と逆の手の強化のためには仕方ないではないか、と思われるかもしれませんが、指導者はかなり不自由なことを強いているということを認識しておかなければいけません。

では、この文脈で「日本語を使う」とはどういうことになるのかというと、「利き手を使う」ということになります。こうなるとはもちろん、「利き手に頼ってしまった」と捉えられるのも無理ないと思います。

しかし、ここからが本題です。「英語(=利き手の逆の手)を鍛える教室なのだから、日本語(=利き手)を使うのはおかしい」と議論終了にしてしまうのもわかるのですが、焦点を変えると話は変わってきます。

どういうことかというと、ここでは「どちらの手を使うか」が焦点になっていますが、「両手を含めた体を使って、何ができるか」ということに焦点を変えると、利き手を使うことがさほど悪いことではないと思えてくるということです。つまり、「利き手であろうとそうでなかろうと、手を体の他のパーツ(=レパートリー)の中のひとつとして有効活用することで、その人なりの意味を持って、何か(目的や意図)を達成できれば良いのではないか」と考えられるということです。

    そもそもことばとは、何か意味を伝えたり、感情を伝えたりして、何かを成し遂げるために使うものです(もちろん、languagingでもありますが)。そう考えるならば、「どの言葉を使うのか」ということに囚われすぎているのは、少しおかしいことに思えてきます。それよりも、ことばや他の意味資源を駆使して何をしたいのか、何を達成したのかということに、もっと焦点を当てるべきではないでしょうか。このことが、伊藤 (2018) の「言い換え」に関する利き手の「アナロジー」から、我々英語学習・教育に携わる人間が学べることだと思います。

 

 

trans-の意義(「現代」の視点、標準・正解/不正解を超えて)

    この章の最後に、改めてtranslanguagingを英語学習・教育に取り入れることの意義を述べたいと思います。そのために、まずはtrans-という接頭語とそれの現代における意義について、もう少し詳しくみていきましょう。

    trans-という接頭語には、以下のような意味があります。

  • 越える、超越する

  • 横切る

  • 向こう側へ、別の状態へ

また、このtrans-という接頭語を持つ言葉には、以下のようなものがあります。

  • transcend(超える、超越する = 超えて、登る (scend))

  • transport (輸送する = 港 (port)を横切って運ぶ)

  • transform (変形する = 形 (form)を別の状態にする)

  • trance (トランス状態 = 意識が「向こう側へ」いった状態、超越した状態)

また、最近よく聞くのは、transgender (出生時点での性別と自身の性同一性が異なっていること)だと思います。これはまさに時代を反映していて、今までは別の呼び名で呼ばれていたはずですが、性別を複数または半分持っているというよりも、むしろ性別を「超える、超越する」ことから、このように呼ばれるようになったのだと推測できます。

    Transgenderに代表されるように、現代においてこのtransという言葉はとても重要な意味を持っているように考えています。上述したように、transgenderという言葉から、「生まれ持った性別でさえもその垣根を越えることができるし、性別という概念を超越できる」、そのような意味合いが感じ取れます。

transgender以外の例として、「国境」もtrans-の考え方に影響されているように思います。新型コロナウィルスの影響により、再び国境を意識することは増えてしまったように思いますが、それ以前 (2010年代後半)の世界を思い出すと、現代はものすごく国家間の移動がしやすくなった時代と言えると思います。おそらく交通網や手段の発達が大きい理由だと思いますが、島国日本でも、学生でさえ海外旅行に行ったり、日本国内にたくさんの外国人が旅行に来たりしていました。私が学生時代アルバイトをしていた渋谷のホテルでは、利用客の7割以上が外国人というほど、特に東京近辺では外国人を見かけるのが当たり前の光景になっていました。

また、物理的な移動のみならず、メールやSNSの利用によって、国境を意識せずに世界中の人々とやりとりができるようになりました。こういった背景からか、「国際的 (=inter-national、国と国の境目を感じる言葉)」よりも、「グローバル (=global、全体を包み込むようなイメージ)」という言葉をよく耳にするようになりました。

このように、gender や 国境といった分厚い「垣根」があると思われていたものでさえ、現代ではtrans-「超越」されています。このような時代において、ことばの学習・教育現場において、言語間の「垣根」を意識した学習法・指導方はあまりなじまないように思います。むしろ、その「垣根」をtrans-「超越」することで得られるメリットに焦点を当て、英語学習・教育をアップデートさせていくべきなのではないでしょうか。

最後に、伊藤 (2018) の「言い換え」の議論と関連づけて、英語学習・教育におけるtranslanguagingの意義を考えたいと思います。伊藤 (2018) で述べられていた「言い換え共存派」の考え方によれば、母語を使おうと第二言語を使おうと、「やはり自分の体がやった行いであることには変わりありません。ズレていても、それもまた自分なのです。」ということになります。この自己の捉え方が私はとてもいいと思います。

「それもまた自分」言い換えてしまおうと、母語を頼ってしまおうと、それもまた自分。言い換えや母語使用によって何かの意味を表すことができるのなら、それでいいのではないか。このような考え方が、translingual identityを育んでいくのだと思います。

 

「利き手もそうでない手も一つの資源」「どちらの手を使っても自分」

「言い換えも一つの資源」「それを使うのも自分」

「母語も一つの資源」「それを使うのも自分」

 

このように学習者が思い、また指導者がこのような考え方を広めることができるなら、この章で書いてきた言葉にまつわる問題の多くが解消されていくように思います。

最後に、念のため付しておきますが、私は「英語の授業は基本的に英語で行うべき」というスタンスです。translanguagingを推奨するからといって、日本語をたくさん使うことを推奨しているわけではありませんし、安易な日本語の使用はさけるべきです。かといって、「オールイングリッシュ」のように、張り切りすぎる必要もないと思っています。その「中庸」ともいえるのが、translanguagingであり、それを有効活用した英語学習・教育こそ、translingual identityを育む「あたらしい英語学習・教育」になっていくのではないでしょうか。