はじめに

先週は仕事の都合で更新できませんでした(言い訳かな?すみません)。

これからまたコツコツ書き進めていこうと思います!

 

前回までの投稿にもあるように、これまで書いてきたブログの記事を本のようにまとめています(まるで自費出版でもするかのように笑)。

 

自分で言うのもおこがましいですが(本当に!笑)、英語学習・教育とidentity・translingualについて書いた本の中では、結構充実した内容になっていると思います(まず日本語になっているものが少ない)。

 

これまでの流れを踏まえて読んでくださる方は以下のリンクからお読みいただき(THE 書き途中という感じで恐れ入りますが・・・)、今回書き足した部分のみを読まれたい方はその下から読んでください。

 

 

 

 

  translingual identity 

translingual identity

2023年、とある英語教育学会で、まだ珍しいことなのですが、translanguagingについて発表されている方がいらっしゃいました。そこで僕はそのプレゼンのグループワークに参加したのですが、そのなかでの話が印象的だったので共有します。

    まず一つ目は、プレゼンターの方がおっしゃっていたのですが、translanguagingについての研究は日本ではしづらいのだそうです。というのも、あまりにtranslanguagingが一般的でないため、授業に導入しようとしても「何をやっているの?」という目でみられてしまうとのことでした。ここまで書いてきたように、日本では「ネイティブ信仰」に基づく「オールイングリッシュ」が蔓延しているため、translanguagingのように母語を使うことを「許すこと」は受け入れ難いのだと思います(もしくは、そもそも伝統的な文法訳読方式ベースの授業をしている方も多い?)。

    しかし、そのグループディスカッションでは、translanguagingを積極的に活用していく必要性やその方法について熱心に話し合いました。方法については次の章で詳述することにしますが、その必要性について、identityとの関係からみていきたいと思います。

    そのグループのメンバーの一人(アメリカ出身の男性)の言っていたことがとても印象的でした。その人は日本人女性と結婚し、いわゆる「ハーフ」の子どもがいますが、その男性がいうには、彼の子どもは英語を理解するのに話そうとしないそうです。いわゆる「受容バイリンガル」なのかと思ったのですが、驚いたことに、実はこの子は英語を話せるのに話さなくなったのだというのです。

    このことが意味しているのは、日本社会に馴染もうとするあまり(日本のコミュニティにsocializeしようとするあまり)、translanguagingすることができなくなっているということです。そしてこの件について、このグループでは「multilingual selfが奪われた」といった表現をしていました。僕はこの言葉を、「translingual identityの損失」と呼びたいと思います。

    identityの損失がいかに重大なことかは、ここまで書いてきたことを踏まえても明らかだと思います。「英語を話すことを好まなくて、translanguagingしづらい」といった「小さなこと」にも捉えられてしまうかもしれませんが、「translingual identityが損なわれている」と考えるとすごく重たいことであるとわかります。

この「ハーフ」の子の話を聞いた時、僕は改めて日本の英語教育の目指している方向や実践されていることに疑問を持ちました。「英語が話せる・話したい学習者が話しづらい環境になっていないか?」「オールイングリッシュの名の下で、日本語の使用が禁じられていないか?」「いわゆるネイティブの教員が、英語のみ話すことを強要されていないか?」すべて思い当たる節があるのですが、これらはtranslingual identityの損失につながっているのです。