「旅」の理由を探して -4ページ目
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2009年5月17日 長野へ

旅とは、いったい何なんだろうか。


日常性からの脱却なのではないか。
そう思ってはいるものの、それが正しいのかどうかはまだ判らない。

芭蕉ではではないが、人生そのものが旅なのかもしれない。


その答えを漫然と探し、今日も家を出る。


2009年5月17日、日曜日。
低気圧が通過したのか、南風が強く鉛色の雲が空を覆っている。
私が乗った長野駅行きのバスは定刻13時40分に新宿高速バスターミナルを出発した。


目的というほどのものではないが、善光寺の御開帳が行われており、見てみようかなと
昨晩呑みながら計画したものを実行へと移してみた。


乗客は15人程度。
日曜の昼下がりだからか、予想していたよりは少ない。


時期的に新緑の季節を少し越えたぐらいである。
関越道をひた走る高速バスの車窓には、緑が飛び込んでくる。
関東平野を北へと向かっているので、当然のように右側の車窓には
ひたすら平坦な大地が広がっている。
その眺めが、どうも釈然としない。


そんなひたすら平坦な眺めに割り込んでくるものがある。
新幹線の高架橋。
なんたる傲慢さだろうか。
釈然が憤然に変わっている。


藤岡ジャンクションから上信越道へ入り、西へと進路を変える。
妙義山の異質な山容が目に入り、なぜかほっとする。
山の嵐気とでも言うのだろうか、ようやく「出かけている」という
気持ちになる。


関東平野に住んでいるせいか、私が「出かけている」と感じる車窓は
海が見えたり、谷間に入るところが多い。
東海道線の根府川駅から見る相模灘。
中央線の高尾の天狗の面。
この妙義山の山容もその一つである。


小雨が降りだした横川サービスエリアで休憩を挟み、八風山トンネルを
抜けると佐久平が広がり、浅間山が目に入る。
するとどうしたことだ、今まで散々目にしていた緑が、好ましいものに
見えるではないか。
雨で葉が光り輝いているせいかもしれない。
が、それは単なる理由付けで、ようやく日常から抜け出したと感じたために
目に入るすべてが好ましく見えているだけだと思う。
つくづく自分の現金さにあきれる。


更埴ジャンクションで長野道と合流し、バスは長野インターで降りる。
インターの出口を抜け、一般道に入った瞬間、鳩尾のあたりにこみ上げてくる
ものがあった。


大学を卒業してからの6年間、私は長野で仕事をしていた。
正直言ってあまりいい思い出はない。
だが、今の職でそれなりに仕事を出来ているのは、この長野時代があった
からだと常日頃思っている。
その苦労がふっと思い出されたからだろう。
そんなことを思い出してしまうほど、風景が変わっていなかった。
これはよいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。


長野駅前でバスを下車し、ホテルへと投宿。
まだ日がある時間なので、一浴して善光寺へ。
前立本尊の3体の一つ、阿弥陀如来の右手から繋がっている本堂前の
回向柱に触れる。
ありがたい結縁が生まれてくるとのことだが、私に春は訪れるのだろうか。


いつも思うのだが、参拝客のことを何故善男善女と言うのだろうか。
お世辞にも善男善女などと言えないようなマナーの悪い観光客も
大勢見受けられる。
参拝をすればお寺さんにとってはすべてOKなのだろうか。
シニカルな見方なのかも知れないが。


参拝を終え、頼まれ物を購入しついでに、ホテルに戻りがてら青春を感じる
長野市内を散策。
ふと気になり、盛り場である権堂のアーケードを通ってみる。
・・・予想はしていた。
だが、あまりにも寂れてしまっている。
飲食店も営業している店が少ない日曜の夕方だからかも知れない。
でも、人通りの少ないアーケードを歩いていると、寂しさを通り越して
悲しくなってきた。
自分の青春時代はいったい何だったのだろうか。
思い出の場所がこんな姿でよいのだろうか・・・



今日はいつもより多めに酒を飲もうと思う。



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