「人間は誰でも死ぬのだ」
日本でも、数多くの本を出版されているスリランカ初期仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラさんは、3、4歳の頃から、母親に徹底的にそう叩き込まれたそうです。
スマナサーラさんは、そのおかげで、遠回りせずに正しい真理を身をもって学ぶことができたといっています。
人は誰しも、頭の中で
「私は死にません」という思いで
生きています。
なので、「死ぬかもしれない」と思ったとき、恐怖が現れるのです。
だから「私は死にません」という思いを早く消してしまったほうがいい。
人は死ぬものであると自覚することから正しい見方が生まれ、明るい哲学が生まれるのだと。
仏教では
「ヤター エータン タター イダン」(パーリ語)という言葉があります。
お通夜で遺体と対面したときに、
「ああ、こういうふうになったのか」
(ヤター エータン)
「私もこのようになるのだ」
(タター イダン)
と、人の死を通して自分の死を見つめるのです。
だから、ペットが死んだときなども、
子どもに
「ワンちゃんは天国に行って、いつもあなたのそばで見守ってるよ」
などとごまかすのではなく、
「生きているものはみんな死ぬのよ」
としっかり教えるべきだと長老スマナサーラさんはいいます。
また、死を目前にした人の看護をすることは、想像を絶するほど得をしているのだそうです。
死んでいく人の事実を細かく観察できるからです。
どう死ぬかとは、
どう生きるかということ。
そして、どう生きるかとは、どう、
ありのままの自分を受け入れるか、
そこが出発点だと私は思っています。
「死を見ない」というのは、
「ありのままを見ない」ということです。
「自分の嫌なところを見ない」という
生き方です。
それでは自分に素直になれるわけがない。
それではどんなにがんばっても、一番身近な存在である自分にくつろげるわけがない。
嫌なものを価値判断せずに、ありのままに見れば、それを生かすことができます。
たとえば、あなたがピーマンを嫌いだとして、冷蔵庫にあるピーマンを見ないようにしたら、それは腐るだけです。
しかし、ここにピーマンがあるとわかれば、ピーマンを超細切りにしてチンジャオロースにだってできるんです。
ありのままを見ずに到達できる真理などありません。
ありのままの自分に素直になれたとき、あなたのハートは解放されます。
そこをクリアーするために、自分の嫌な感情とのつきあい方をご紹介しましょう。
たとえば、嫉妬してるときや、くよくよ不安を感じているときなど、嫌な感情が出てきたときに、今度、その感情が体のどこにあるか感じてみてください。
感情は体の感覚とリンクしています。
たとえば、緊張や極度の責任感は、肩や首すじに表れやすい。
「肩の荷がおりる」「借金で首が回らない」という表現があるのは、文字通り、感情と体がつながっているからです。
愛情の欠乏、孤独感、自己嫌悪は胸に出やすい。
だから「胸が痛む」とか「胸にポカんと穴があいたような孤独感」などと表現される。
また、いいたいことがいえない、自己表現の抑圧などはのどに、やりたくないことを我慢してやっている場合は胃に、不安や恐れ、怒りは下腹に出やすい。
この嫌な感情が出てきたときは、その感情を嫌うのではなく、無視するのでもなく、感情が表れている体の部位に手を当てて、いい、悪いの価値判断をせずに、感情をひたすら感じてあげればいいのです。
「あなたはいま、〇〇って感じているんだね」と、感じてる体の部位に伝えてあげればいい。その嫌な感情に「居場所」を作ってあげればいいんです。
実は、嫌な感情を体のどこで感じているのかと、体の部位を特定した瞬間に、
「自分が寂しいのではなくて、自分の胸が寂しいんだ」と、嫌な感情と自分に一段距離を置き、客観的に見られるようになっていきます。
いつか死ぬんです。
ならば、自分じゃない自分を偽って成功するよりも、むしろ、失敗しちゃっても、ありのままの自分で生きたほうが
かっこよくないですか?
誰になろうとしてるんですか?
憧れる人がいることはステキなことですけれど、そのままそのようになる必要はない。
せっかく、世界でただひとりの、
あなたとして生まれたのだから。
誰にもなる必要はない。
あなたは堂々と胸をはって、
あなたであればいい。
欠点こそ個性、あなたらしさです。
ありのままの自分にオッケーを出せたとき、あなたは自分のハートとつながります。