静岡の祖母は気の強い女だった。
むかしは皆そうであったように女は学ぶ機会を与えられなかった。
が。残っている文章をみるかぎり、現在と比べるとはるかに多様で難しい漢字を縦横に使い、豊富な語彙で、気の強さがにじみ出た達筆で、物事を表現していた。
とてもとても叶わない。
娘を5人生み、4人が成人した。娘たちの通信簿が残っていた。皆「優」だった。理、文、体育、芸術すべて。
わたしは、祖母の次女の子だ。通信簿はいつも「3」と「4」だった。母は、通信簿を渡される度に、わたしを正座させ、びんたで頬をひっぱたき続けた。
そんなわたしを。祖母はとくに可愛がった。
わたしは、祖母の亭主に顔がそっくりだった。
祖父は女癖が悪かったようだが、それでも好いていた。
祖父はガダルカナルで戦死した。
おなじ静岡連隊にいた生き残った人が最期の様子を記録として残していた。
南国なのに下肢が冷たい水で浸り続けている洞窟の中で凍え死んだ。
靖国に祀られている。
祖母はお参りを欠かさなかった。
靖国神社の周辺はいつも警察の規制がかかっている。
頻繁にシュプレヒコールが聞こえる。
街宣車が並び、公安の男たちが睨みを利かしている。
日本が侵略した大陸の国々は、ここに、憎しみの言葉を投げかけ続けている。
80年たっても、ここは不穏な空気のままだ。
ガナルカナルで死んだ「ヤロク」は、それでも愛し続けた「シゲ」は、どう思う。
日本国政府は、これらの問題に決着をつけ、
国のために死んだ者が安らげる場所にする責任がある。
靖国神社は、1869年、明治政府が東京招魂社として建て、第二次世界大戦まで軍部が統括した。
建てたのは官軍の総司令官〝花神〟大村益次郎。
1853年以降、国の政策に殉じて亡くなった人、つまり戦没者の霊を祀っている。
「靖国で会おう」。戦地に向かう兵士はそう言葉を交わしていた。
1945年、敗戦とともに、GHQは軍国主義の象徴と判じ、解体を主張したが、協議の結果、
1946年、政府の管理から離し、宗教法人とすることで決着した。
超えなくてはならない問題は山ほどあるが、
国家が死に追いやった、数多の思い、信心を抱えた日本人たちを、
国家ではなく、一宗教法人が独占して祀っている…
憲法が政教分離をうたっていても、
その法は、日本人であり、その代表である国が、つくっているのだから。
これだけとっても、国は、無責任すぎる。